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9月の伝道研究会

7月に続いて、信心正因についての悟朗先生のテキストを輪読する。
その中で、「信心」「正因」の文字と、その出拠についての箇所だ。
法然様の『選擇集』の三心章のご文から発生し、法然様のお正信偈の箇所を説明になった。
法然様といえば「専修念仏」の行が表看板だが、なぜ、お正信偈は親鸞様は、法然様の教えを「信疑決判」として押さえておられるのかをお話した。

その時、何気なく「親鸞聖人の時代から、正信偈をお勤めされていたのだすか」という質問があった。

『正信偈』と合わせて、『三帖和讃』を開版して、朝晩の勤行にせよとお示しくださったのは、蓮如様の大きな功績である。おかげで、一般の門徒もまた、真宗のみ教えの要に、日夜触れることができるようになり、合わせて、安心の鑑というべき『御文章』をいただくことで、日夜の勤行を通して、正しい真宗教義や安心の要に触れることができるようになったのである。

これは、悟朗先生の正信偈講座に出た方なら、よくよくご存じのところだ。でも、これだけの顔ぶれが集まっているのに、ほとんどの方が、分からないといわれて、逆に、ぼくの方が、びっくりした。別に、知識の有る無しではないのだ。といのも、正信偈の構造として、ぼくとしても、何度も繰り返していたところだったので、プチショックだったのだ。

さて、そのお正信偈は、「南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」で始まり、法蔵菩薩の発願の因果、そしてお釈迦様のご出世、それを「如来如実言を信ずべし」と顕される。しかし、その信楽は、自力では「難中之難」である。そこで、お釈迦様の正しいお心を受けた七高僧様が顕れ、本願を機に合うようにお説きくださった。それで、最後に「ただ、この高僧の説を信ずべし」と結ばれているのである。さらに、私どもが、その「信ずべし」の教えを、お正信偈を通して親鸞様のお言葉としてお聞きすることができるのであるが、それも蓮如様のご功績があればこそである。しかも、そのことを、かみ砕いた悟朗先生のご講話としていただいているのだと、常々お伝えしていたつもりだったからだ。

でも、基本的なことなので分かってもらっているつもりだと思い込むのも怖いと思った。分かりきっていることでも、何度も、懇切丁寧にお伝えしていくことの大切さを、逆に教えられた気がした。

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