『戦場ぬ止み』(いくさばぬとぅどぅみ)
辺野古沖の基地反対運動を取り上げた三上智恵監督の『戦場ぬ止み』は、いま見るべき映画だ。
http://karimon.cocolog-nifty.com/blog/2015/02/post-ae9e.html
監督は、今年の冬、東本願寺で講演を聞いた三上知恵監督。『標的の村』以上に、無力感に襲われ、やるせない、空しさといか、悲しさを感じさせられて、打ちのめされる思いだ。
まず、講演会の感想でも触れたが、辺野古沖の基地建設は、普天間基地の単なる代替基地ではないということだ。辺野古沖のにつくられるのは、飛行場だけでなく、巨大船が使用できる軍港が併用され、オスプレイの訓練地がある高江と連帯もでき、しかもその費用は、日本の税金で建設されるという、アメリカには、こんな願ったりかなったりの案はないのである。
そして、犠牲になっているは、サイゴとジュゴンの最後の楽園という自然だけでなはい。国策によって、ひき割かれ、全線でぶつかり合うのは、日本人同士であり、同じ沖縄県民同士の心も破壊されていく。にもかかわらず、けっして対立の前面にはアリメカは出でこないのである。
さらに、知事選の応援演説で、故菅原文太氏の「海も、山も、自然も、国家のものではない。そこに住む人々のものだ」という当たり前のことが、国民の安全を守るという「安全保障」の大義では、通用しない現実がある。
民主主義国家でありながら、知事選でも、国政でも、反対派が完全勝利しても、国策を楯に、地元の声を黙殺し続ける政治。現に、太平洋戦争末期の沖縄戦では、軍隊は沖縄の人達を守るどころか、住民を楯にして、沖縄を捨て石にして、国体を護持することを最優先した。いや、それしかなかったのだ。それなのに、今、住民の小さな反対運動のために、尖閣を防衛している武器を備えた「軍艦」(名称は巡視船だが)銃口は、反対派の沖縄の一般市民に向けられているのだ。これまでの歴史を鑑みるだけで、主義やイデオロギーでの反対でも、単なる住民エゴとは明かに一線を画す、人間として最低限の生活を踏みにじられた人々の、怒りの声だ。
しかもこの映画がいいなと思ったのは、反対派の人達以上に、保証金を手にしたり、諦めムードの賛成派の人の無力感の態度に、この問題の本質が観る思いがしたからだ。この無力感や諦めムードこそが、基地を抱える沖縄の人達の、人間としての心を蝕んでいるものではないだろうか。
とにかく考えさせられました。
立場が異なるけれど、この映画評論家の声が面白かったので、参考までに。
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