危篤
仏の子ども大会の翌日、父をショートスティに送っていく。
老々介護で疲労している母が、少しでも休まるようにと、月に2度、3泊4日のお泊まりである。
体温や血圧などの健康チェックを受けるが、今日は、いつもより少し血圧が低くいらしく、聴診器をあてながら念を入れて調べてくださった。
父の上着のボタンを留めながら、
「じゃ、お父さん、金曜日の4時に迎えにくるから、心配ないしな」
と、いつものように声をかける。
「うん」と声に出した返事があったか、それとも、ただ頷いたけだったのかは、今、もう思い出せない。
スタッフに会釈し、父の方を振り返ることもなく、そのまま施設をあとにした。
そして、6日の木曜日の深夜、正確にはもう日付が変わった金曜日になるが、電話がなる。
直感的に、父の体調ことだと思った。
やはり、そのとおりだった。夕食を食べ、テレビなどをみながら寛いで、9時すぎに寝室に入ったが、その後、定期巡回の時に、異変に気付いたという。吐瀉物があったので、誤飲を心配して吸引をされたが、意識はなく、高熱、血圧も低下しているので、すぐに近くの第一日赤に運ばれたというのである。
詳しくことは分からなかったが、これまでも、夜の救急車のお世話になってきたので、尿路感染の類なのかと思ったりもした。
とにかく準備し、ぼくだけ先行して病院に急ぐ。タクシーなら10分もかからない。
すぐに担当医が説明くださる。「脳幹出血で、肺炎もおこし、胃からも出血しています。たいへん重篤な状態で、数時間で急変することもあります。90歳まで生きられた生命力もありますが、もしこの危機を脱しられても、植物状態で、意識が戻られることはないでしょう。今は、延命処置をどの程度なさるかという段階だと思います」との説明し、「近しい親族などにお声をかけてください」と、付け加えられた。
先生のかなり深刻な話を、どこかボンヤリと聞いていた。戸惑うわけでも、驚くわけでもなくて、平然としている自分がいる。もしかすると、その前まで元気だったので、あまり実感がなかったのかもしれないし、または、少しずつ老いていく父の姿に、覚悟していたからかもしれない。
以前、過度な延命処置はしないと決めていたので、なるべく楽な形で、最期を迎えてもらいたい旨を伝え、処置がすんだ父と対面した。
その姿をみても、まだ深刻な気分にならなかった。ああ、ここで終わるのかと思いつつも、別に涙も、動揺なかった。
酸素マスクをした父は、呼びかけてもすでに意識はない。それでも、からだ中で、苦しそうに息をしている。そして、時よりせいては、痰や血を吐き、胃の中も吐いていた。以前、恩師より、「いのち」の語源は、「息のうち」だという話を聞いたことがあるが、まさに、全身を使って息をしている姿に、いのちの尊さをみた。普段、何気なく、何の意識せずに行っているいのちの営みが、これほどたいへんなことなのか。同時に、死ぬこともまたたいへんな大仕事であることも感じさせられた。
ここ数年の父からは、老苦の厳しい現実を身をもって教えられてきたが、ここにきて、この肉体のある苦しみ、病の苦しみ、そして死に向かっていく最期の苦しみを、身をもって教えてくださるようであった。
集中治療室にうつり、母と連れ合いと3名で、早朝まで、静かに父を見守っていた。
苦しそうにからだ中で息をし、時折、咳き込む父をみながら、ただ、「ありがとうございました。南無阿弥陀仏」と申させていただく以外、特に言葉もなかった。お念仏申していると、涙が滲み、温かい気持ちがしてくるのが不思議だった。(つづく)
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