力なくして終わる時に
最期は、あっけなかったようだ。
「ようだ」というのは、タッチの差で、息が絶える臨終には立ち会えなかったからだ。
朝から病院に詰めていたが、名古屋らか姉も駆けつけ、落ち着いているようにも見え、関係者への連絡や葬儀屋探しなどで、一旦帰宅した。ところが、家に戻って30分もしないうちに、「いよいよかもしれない」との電話がある。
大急ぎで、病院に戻るも、正面玄関の前で、訃報の知らせが入った。
8月7日夕方6時26分のことだった。
病室に入ると、眠るような、静かな、父の姿があった。やはり、「長々のお育てありがとうございました。南無阿弥陀仏」以外に言葉は必要なかった。せっかくなので、父の遺体と一緒に、みんなで記念撮影をする。
それまでは、全身で息をし、胃にあるものを全部吐き、苦しそうにセク姿をみると、いのちがあるというのはたいへんなことだと思われたし、死ぬことは並大抵の事業ではないと実感させられてきた。そんな父の姿に「娑婆永劫の苦」という言葉が浮かんできた。
父と二人の時間には、このご和讃を、口に出して何度かお称えもしてみた。
でも、最期は、こんなにあっけなく、静かに終わるのかと思わされた。まさに、
「なごりおしくおもえども、娑婆の縁つきて、ちからなくしておわるときに、かの土へはまいるべきなり」(歎異抄)のである。
準備が整う間、控室で待っていた。先ほどまでは明るかった西の空が、紫色に染まっている。Rちゃんが撮影している姿が面白かったので、ぼくもその姿を撮らせてもらった。
その間も、葬儀社を決め、先生方や役員の皆さんに連絡し、町内役員さんにも連絡し、バタバタと時間がすぎていく。
2時間ほどしたら、葬儀社も駆けつけ、遺体が自宅に戻る段取りが整った。父と一緒に、病院の中をグルグルと歩き回った。どこに行くのかと思っていると、裏口にある霊安室にたどり着き、そこから遺体は静かに出ていた。噂どおり、入り口からはいって、死ねば、一目のつかない裏口から出て行くのである。
父の遺体とならんで、一緒に会館に戻る。
「金曜日に迎えにくるからな」といって別れた言葉が、最期となったのだが、約束どおり、金曜日に一緒に家に帰ることになった。しかし、こんな形で、一緒に帰ることになろうとは、まったく思ってもいなかったので、何か不思議な気分だった。
すぐに簡単な打ち合わせをし、町内会にご挨拶をしたり、お悔やみにきてくださったTさん一家の皆さんと、臨終勤行(世間でいう枕経)を営んだ。
布団に寝かせていたので、静かに眠っているかのようだった。触れると、またほのかに温かくもあったが、それ自体に、それほどの感慨はなかった。これはもう屍であって、平生業成の身にとっては、もう用事のないものであることをお聞かせあずかってきたのだ。そして、そんなすばらしい教えを、父から教えていただけた、この身の幸せに心をはせると、涙が静かに滲んできた。
その夜は、普段とさほど変わらぬ気持ちで、床に就いたなのが、不思議だった。
弘誓のちからをかふらずば いずれのときにか娑婆をいでん
仏恩ふかくおもひつつ つねに弥陀を念ずべし
娑婆永劫の苦をすてて 浄土無為(むい)を期(ご)すること
本師釈迦のちからなり 長時(じょうじ)に慈恩を報ずべし
(高僧和讃・善導讃)
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