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7月の聖典講座~浄土の荘厳~

 『大経』の講義も、「如来浄土の果」に入ったが、ここは大きく、「略説」【十】と、「広説」【十一~二一】に分科される。

 前回から「広説」で、まず、主に仏身の荘厳について説かれている。つまり、法蔵菩薩の正覚が成って、光明無量・寿命無量の阿弥陀如来となられたお徳が讃えられている。十二願と十三願の成就文にあたる箇所だか、同時に、光明無量・寿命無量は、浄土の主である阿弥陀如来のお徳に留まらず、そこに生まれた聖衆もいただくお徳であることを窺っていった。
 それに次いで、今回からは、その国土、つまり阿弥陀如来の西方極楽浄土の荘厳が詳細に述べられていくのである。

 「依正二報」の荘厳と言われるが、
前回は(1)「正報」(しょうぼう)…まさしく過去の業の報いによって得た衆生の身心で、ここでは、阿弥陀仏と、菩薩衆(聖衆)を指している。
今回は(2)「依報」(えほう)…その身心のよりどころとなる国土・環境のことで、ここでは、極楽浄土のことを指している。

 詳しくみると、宝樹荘厳【十四】・道場樹荘厳【十五】・自然音楽【十五】・堂舎の偉観【十六】・そして、宝池荘厳【十六】という浄土の国土のありさまが、華麗にかつ詳細に述べられている。(講義では、親鸞様が、道場樹荘厳の「道場樹」を、二十八願成就文として、十九願の方便化身の浄土と見ておられる点を、時間をかけて触れたが、いまは、略します)

 しかもそれは、【十五】に説かれているが、すべて、法蔵菩薩の(2)因力と本願((3)~(6))と、そして阿弥陀仏の(1)果力の威神力の顕れほかならない。
 もう少し具体的に示していくと、

 (1)「弥陀仏」神力(果力)=威神力・阿弥陀仏の自由自在な果力
 (2)「法蔵菩薩」本願力(因力)
   (3)満足願(十二・十三願に相当)
   (4)明了願(十七願に相当)
  (5)堅固願(十八願に相当)
   (6)究竟願(十一願に相当)
という「六種願力」によって、荘厳された浄土ということになる。

 ところで、伊藤康善先生の『仏敵』には、『大経』のこの箇所を読まれた伊藤先生の道求めている苦悩が、龍大教授と、野口道場での同行の前で、2度もでてくる。

「本日も昼の勤行のときでした。皆といっしょに『大無量寿経』の七宝樹林の一節を読み始めましたが、とても私は悲しくって、先を読む気になれませんでした。弥陀の浄土の依報二種の荘厳は、一々衆生のためにでき上がったと聞いておりますが……私一人だけは、その如来のご本願に漏れています」
 こらえこらえていた感情の発作は、そのとき自己に対する怒りともつかず、哀れみともつかぬ混沌たる状態となり、熱い一滴の涙となって絞り出された。一度涙によって刺激された私は、もう再び平静な状態に回復できなかった。

「私は……私は……非常にその点で悩んでおります。この冬にです。学校の先生に言いました。浄土の依報の荘厳は、宝樹の葉一つまでも、極悪の我らがためならぬものはないと仰せられるが、私一人だけは、その如来様のご本願にもれておりますと言いました。それから私の生活はまったく悲観だらけです……」
 語ろうとするけれども、私の舌は妙にもつれてどもるのである。
 「ああ!」と、そばの男の人が言った。「あなたは、なかなかよいところへ出ている!」
 その一言で私は悟った。この人たちもやはり、信仰上では深い悩みを経験しているに違いないと! 私は彼らに深い親しみを感じた。同時に話には油が乗って、ようやく舌が自由になった。

  荒唐無稽のおとぎ話で終わるのか、それとも私一人のためのお浄土とお聞かせいただけるのか。聴聞の分かれ目でもある。

 それにしても浄土の荘厳の記述は圧倒的だ。
 勤行と、冒頭で、そして最後に、今日の箇所を通して3度、声に出して読んだ。講義の結びの3度目の時には、「これでもか、これでもか」という七宝で荘厳された宝樹や宝池のありさまに圧倒されて、読みだけでも、みんなグロッキーになってしまった。

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