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2015年6月の24件の記事

華光誌発送しました!

74巻3号の華光誌(案内状付き)を発送した。

今号は、久しぶりに悟朗先生の「正信偈講讃」を誌上講話として掲載している。

さて、同封した案内状は、5種類もある。

1)第64回「華光仏の子供大会」(黄色)
 日 時:7月31日(金)~8月3日(月)
 会 場:華光会館
 ◎参加費を事前に納付してください。

2)第2回「念仏と黙想と、語らいの集い」(白色)
 日 時:8月22日(土)~23日(日)
 会 場:華光会館

3)第5回「東京講習会」(正信偈5回)(緑)
 日 時:9月12日(土)~13日(日)
 会 場:林野会館(東京都文京区大塚3丁目)
 ◎参加・宿泊費を、事前に振込でください。

4)仏教青年会・高山支部合同法座(ピンク)
 日 時:10月10日(土)~11日(日)
 会 場:御宿・四反田(岐阜県高山市丹生川町)
 ◎参加・宿泊費を、事前に振込でください。

5)真宗カウンセリング研究会のパンフレット(青色)
 第25回「広島真宗カウンセリングWS」  
 日 時:8月18日(火)~20日(木)
 会 場:神田山荘(広島市東区牛田新町1丁目)

事前申込(振込)が必要なものもあり、申込みの仕方がそれぞれ違います。案内状を熟読の上、お早めにお申し込みください。  

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仏青~京都支部合同法話会

2日目の昼は、京都支部との合同での法話会。

源信僧都作といわれている『横川(よかわ)法語』を取り上げる。

有名なのは、冒頭の言葉で、たびたび法話でも取り上げられる。

「まづ三悪道をはなれて人間に生るること、おほきなるよろこびなり。身はいやしくとも畜生におとらんや。家はまづしくとも餓鬼にまさるべし。心におもふことかなはずとも地獄の苦にくらぶべからず。世の住み憂きはいとふたよりなり。このゆゑに人間に生れたることをよろこぶべし。」

この『横川法語』は、大きく三段に分科されるが、

1)三悪道を離れて「人間に生れたることをよろこぶべし」の段

2)信心浅けれども、本願深きの故に、「本願にあふことをよろこぶべし」の段。

3)凡夫は、臨終まで妄念から絶対に離れられないが、念仏に功徳によって浄土往生に決定し、妄念を離れることができる。

と示される。確かに、冒頭の文章が耳に馴染むが、本願に会ったすばらしさを語る第二段や、さらには、凡夫の妄念に対して、本願に相応した念仏の尊さを述べられた第三段も大切である。

ただ、ここは、親鸞聖人や浄土真宗の立場-他力回向の信心と平生業成の立場からみると、「信心あさけれども」とか、「来迎にあずかる」など、立場を異にしているかのような表現があるので、ここは当面の語彙ではなく、あくまで浄土真宗の立場から味わっていった。

それにしても、第三段が、ことに有り難い。
中でも、最後のお言葉は、とても尊い。

「妄念のうちより申しいだしたる念仏は、濁りに染まぬ蓮のごとくにて、決定往生疑あるべからず。」

南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

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仏青大会~盛り沢山~

6月の仏青は、合同法座などの企画研修会だが、今年は高山支部との合同法座が10月に予定されていて、6月に仏青大会が開催された。

Img_8058最近、仏青は、運営上でいくつかの問題を抱えている。ある意味、深刻な状況でもあるが、それは、世話役の2~3名と、事務所の意識であって、大半の会員は、そうは感じていないようだ。たいへんな中でも、変わらずに法座が成立しているからだ。でも、それも限界に近いように見える。現状を訴えて、意識や問題点を共有しあい、みんなで改善の必要があるのだ。その意味では、今回、臨時の話し合いが持たれて、参加の皆さんに聞いてもらえたことは、大きな収穫だった。これからも地道に、訴Img_8070えていくしかない。

さて、大会はどうだったか。参加者は、けっして多くなかったが、高校生から40歳の方まで、幅広く参加される。お世話役の頑張りである。主に20代後半が中心だ。

Img_8047導入のゲームから、夜の仏法基礎講座、翌朝は、「往生礼讃」(日没偈)の本式な勤行、昼からは、京都支部との合同法座で、一緒に法話聴聞。と、内容的には、盛り沢山。さらにその間に、ヤキソバ作り、そして臨時の話し合いもあった。次々とイベントがなって、なかなか充実していた。ただし、じっくり話し合ったり、聞きあったりすることは出Img_8054来なかったのは、残念だ。これはここ数年の仏青の傾向だ。もしかすると、若い人達は、話が盛り上がらなかったり、沈黙するのが怖いのだろうか。

それでも、意欲的に何かやろうという姿勢は、仏青らしくて、よかった。それぞれが新鮮で、意味ある企画で、担当者は、ほんとうに頑張っていたと思う。ただ、個人の好きなことだけの独壇場になると、参加者の成長は伴わない。できれば、もう少し参加者とのコミニケーションが密になると、さらにいいものができるのではないか。これは今後の課題。

お疲れ様でした。

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6月の伝道研究会

安心編も、「信心篇」に入って、前回までは「三心一心」で、みんな頭を悩ませたが、今回からは、(2)「信心正因」に入る。信心の力用(はたらき)を解明する段である。

まずは、浄土真宗の信心は、「ご安心」「ご信心」と呼ばれて、阿弥陀様からたまわる、「他力回向の信心」であることを復習する。そのいただきぶりは、「名号」(南無阿弥陀仏)を領受することであるが、具体的にいうと、「名号」の「いわれ」「すがた」を聞きわける、心得ることである。名号の働きと、信心の関係について、述べられていく。

皆さんは、実地の経験は充分ある。具体的な法座でのやりとりの話はできるのだが、それがお聖教の上で、どう示されるのかというと、ややこしくなる。これは勿体ないことだ。聖教や知識で納得したり、固めた信心ではないのだから、単なる心理主義でも、体験至上主義でもなく、わが身に受けたことが、しっかりお聖教の上で裏付けられることを学べば、ますますご法の働きの広大さと、緻密さに驚くばかりなのである。

その意味では、このテーマは、いまの皆さんには、相応しいところかもしれない。

次回は、7月8日(水)夜7時30分~10時

いまのところ、同人会員限定だが、まだ未参加の方も、一度、顔をだしてみてください。

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壮年の集いIN宮島 〆切間近!

今年の「壮年の集い」は、広島支部との合同で、宮島の対岸のホテルが会場。

一度、この会場で、真宗カウンセリングWSが開催されたことがある。駅からも近く、宮島フェリー乗り場が目の前だ。

広島支部が、いま面白い。広島市内だけでなく、福山などの備後組に、島根の同人が増えて、異なったバックボーンをもった人達で、賑やかだ。

熱海での法座ではないが、確かにどこでも聞法するだけならできる。しかし、時間やお金もかけて、日常を,「出て聞く」ことが、「出会い」につながる。せっかく広島まできて、いつものお友達とつるむだけなら、意味はない。広島の皆さんも、さまざまな準備や工夫しくださっている。風光明媚な会場で、日頃、会えない広島支部の皆さんとの交流をもち、共に聞法することは、お互いにとって意義深いのではないか。

すでに、地元だけでなく、京都、大阪組に加えて、大分や福岡、高知、そして日高支部や東海、北陸、高山、さらに東京支部の皆様からお申し込みがあって、賑やかな顔ぶれだ。

ただ、外部のホテルを利用するので、事前の申込みだけでなく、参加費や宿泊代の事前振込が必要!  参加を希望される方は、早めにお願いします。

今回は、連れ合いも一緒に参加するので、今日、ぼくも郵便局から振込を済ませた。

詳しくは、ここをご覧ください。

http://homepage3.nifty.com/keko-kai/event/2015/detail/07/sounen2015-7.htm

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浅野屋洋食店

Img_8018父の90歳のお祝いに来てくれた姉との話から、名古屋の浅野屋洋食店行きが、急遽、決まった。

まもなくブラジルに渡る子供たちと、父と母がドライブするのも、これが最後になるだろう。
Img_8016父にとっても、もしかすると最後の名古屋になるかもしれない。
正直、昨年までの調子なら、こんな遠出は、到底、考えられなかった。というより、考えようともしなかった。

お店には、義母のS子さんや、子供たちの従姉妹のMちゃんが待ってくImg_8015れていた。

父の書の「看板」と「のれん」、そして「無礙道」がお出迎えで、父もちょっとうれしそうだ。

子供たちは、お店の看板メニューである、、「メImg_8031ンチボール」(夜は1,000円)と「エビフライ」(同1,380円)をそれぞれ注文した。

おいしく頂いて、家族揃って、ゆっくりと食事をさせてもらうことができた。

Img_8034心配していた父も、元気に戻ってきて、一安心。翌日も、調子がよさそうだった。この調子なら、また次のチャンスがあるかもしれないと思ったが、こればかりはまだ分からない。

最後に、コマーシャルを。

名古屋駅からのアクセスもいいので、名古屋にお立ち寄りの同人の方は、ぜひ一度、お出かけください。

http://www.geocities.jp/asanoya15/

http://asanoya.cocolog-nifty.com/

 

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ここも、熱海

Img_7922_2_2期待していた熱海温泉.。旅館の庭に湯気があがり、なかなか風情のある外観。

Img_7923が、しかし風呂は、汚く狭く、がっかり。トイレも少なく不自由で、食事もいまひとつだ。

Img_7926が、しかし、全館貸し切りで、大広間も、個室も自由に使え、分級座談にしても、お念仏をするのにしても、なんの気兼ねもないという点では、こんな有りImg_7931難い会場はない。それに、どことなく、学生「合宿」という雰囲気があって、悪いことばかりではない。

Img_7951熱海に行くというと、皆さん口々に、「熱海の海岸散歩する~、貫一、お宮の二人連れ~」とわれる。いまだに金色夜叉であるImg_7954。でも東京人と違って、関西から熱海は距離がある。

が、 せっかくここまできたのに、その海岸にも、熱海城にも、秘宝館にも行かず、そのまま会場に向かっImg_7979た。

「旅館から歩ける距離なので、ぜひ來宮(きのみや)神社へ。ご神木を一周すると、一歳長生きできる御利益がありますよ」と、タクシーの運転手が勧める。
Img_7972長生きもいいが、どんな形態かによるな。最近は、なかなか死ねないことで、違った老苦も味Img_7996_2わわねなぱならない。確かに、栄養面でも、衛生面でも、またある程度平和で、しかも医療が発達したおかげで、誰もが長生きになった。が、同時に、長寿がめでたいとは言い難い、厄介な世の中にもなっている。まもなく、未曽有の超高齢社会がやってくるのだ。

Img_8000神社の写真などを載せたら、「また『無碍の一道にもほどがある』とクレームがきますよ」と忠告された、せっかく熱海まできたのに、観光名所の写真Img_7981_2枚もないのも、寂しい。

それではと、夕食後、散歩を兼ねて来宮(きのみや)神社まで歩く。 知らなかったが、本州一の巨木の楠木がある。

確かに大きい。が、ほんとうに一番なのかと思う大きさだが、天然記念物に指定さImg_7975れているので、まんざらウソでもあるまい。「そうなのか」という感じで眺めて、一応、一周ぐるりと見て回る。それにしても、夜の神社の雰囲気は、なんとも独特。そのImg_7936_2うえ、BGMに越天楽が流れている。わざわざとなのかと不思議に思っていると社務所で皆さん練習中だった。

旅館の駐車場の隣はこんな妙な建物があっImg_7941た。「スプリチュアル・カウンセラー」は儲かるようだ。「真宗カウンセラー」を名乗っても、別荘どころか、何も建てることできない。どうやらこのあたりが、いま流行りの「パワー・スポット」か。

Img_7942前には、佐佐木信綱の終焉の旧宅があった。
文化勲章の第一号であるが、なんと12歳で、東京帝国大学に入学した早熟の天才である。 週末は、庭園を解放しているので、昼休みを利用して出かける。Img_8008_2小さいが上品な庭である。散策していたら、声をかけてくださり、お茶まで出してくださた。

さらに、庭を抜けて谷崎潤一郎が名作『細雪』を執筆した旧宅があるので、「内部には入れないImg_8004が、ご案内します」と、雨の中、わざわざ連れて行ってくださった。文豪は、この地で『細雪』を書いたのだ。大阪船場が舞台で、京都Img_8007_2や大阪などの関西ゆかりの作品が、熱海で書かれていたことは、不思議な感じがする。ちなみに、華光誌第1号Img_8005が出た同時代のことである。すぐ横に、吉川英治の別荘があったそうだが、いまは跡地になんている。温暖で、温泉もあるこの地には、昔から作家や著名人が冬の寒さを嫌って、居を構えていたらしい。

30分足らずの昼休みの散策にしては、充実した内容。

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東京・東海合同法座in熱海

新幹線で通過するだけだった「熱海駅」に初めて降り立つ。

東京支部と東海支部の初の合同法座。

両支部とても、男性が多い。年代も、働き盛りの壮年層が多いという点でも、共通している。両支部員の互いの交流が楽しみである。

法話は、『仏敵』をテーマにさせてもらう。 やはり、これが華光の原点だと、痛切に感じさせてもらう。

藤太郎さんの獲信の契機と、

「ただ今、出で行く後生となればどうです。一大事の後生となればどうです。臨終を今に取り詰めて考えてみればどうです!」
という、迫力あるお勧め。

さらには やゑさんの獲信の契機と、

「あなたは、つまりませんぜ! つまりませんぜ!」
の一言での強烈なお勧め。

そして、伊藤先生の反発と、心の葛藤。

さらに、 真実の弥陀の悲心を端的に打ち出した「そのまま来いよ、引き受けるぞよ」の大悲の喚び聲。

いや、どれもこれもすごい。

父が、あとがきで、「この『仏敵』との出会いが、私の一生を決定づけた」 とある。

そいうことは、今日の僕があるのも、この本に、父が出会ったからである。 わたしの一生も、これで決定づけられる契機になったのである。

もう100年以上昔。野口道場で繰り広げられてきた信疑の白兵戦が、地縁も、血縁もない、その意味ではまったく他人の老若男女が、100年後の熱海の地でも、後生の一大事と、自他力廃立の二つを要を外さずに、今もまた繰り広げられていることの不思議を喜ばずにはおれない。

そして、野口道場の同行たちが喜んだように、同じ一味で、その念仏を喜びあえる法友がいる! なんという幸せなことであろうか。

帰路の新幹線でも、最初から『仏敵』を読む直す。
涙と念仏なしには読めなかった。

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それぞれ

法座を前に、散髪にいく。
店主の趣味である、五島列島トライアスロンの完走の話を聞く。http://gototri.com/

12時間かけて、水泳、バイク(自転車)、マラソンの全長226kmキロもこなしていく。今年も、無事完走し、鉄人メダルをゲット。 

自称、日本一タフな美容師である。まだ体がの節々が痛いといいながら、来年に備えてトレーニングも始まっているという。毎日の鍛練と、過酷なレース。ぼくにすれば、何が楽しくて、こんな体を酷使するトライアスロンに夢中になるのかは分からない。

妙な話だが、昨日聞いた、山岳信仰、修験道修行の姿にダブってくる。

ランナーズ・ハイじゃなけいれど、身体が限界を超えたとき、通常では分からない、恍惚の世界があるのだろうか。

ただ、仏道修行は、単なる快感ではなく、また苦行でもない。そこに「成仏」という大きな目的がある。でも、そこに焦点をあてた時、ほんとうに末法濁世にあって、わたしが仏になる道は、他力念仏以外にはあり得ないのである。

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予期せぬ刺激

輪読法座が終わり、龍谷大学の深草学舍へ。

6月の真宗カウンセリング研究会の月例会。

終了後、今年からメンバーに加わったばかりのK君と。

真言宗醍醐派の僧侶で、一度ゆっくり話して見たかった。

真言宗といえば、子供が保育園でもお世話になっていた、東寺(東寺派)が身近にあるけれども、醍醐派の方と知り合うのは初めて。そもそも、密教や真言宗の実体は、何も知らない。

大学院で仏教学を勉学されているので、かなりの理論派。天台や唯識にも詳しい。 修行のこと、教学のこといろいろと聴かせてもらった。 大自然の中での修行が、自然と一体となる体験で快感で楽しいという。でも、それは悟りそのものではないことも、よく認識されている。

ぼくも、浄土真宗の真髄である他力回向信の一念の世界を語らせさてもらう。浄土真宗の僧侶の方には、なかなか理解されなかったり、批判されることが、逆に、興味に深く伝っていく。そもそも浄土真宗に魅力を感じなかった点が、やはり学問中心にしか映っていなかったようだ。

昔のある集まりで、ぼくとある人の議論から、彼の唯識の師である岡野守也氏が「信の仏教と、覚の仏教の違い」との説明で、浄土真宗と聖道門との相違を指摘いただいた。でも、ぼくは、浄土真宗は、確かに信の教えだけれでも、「無上覚を覚るべし」で、その信とは、目覚めであり、「覚」の教えだと思っていることなども話した。

彼から、「浄土真宗の始まりは、『大乗起信論』ですよね。信を起こすのですからね。」の指摘。いやいや、そんなことを聞くのは、凝念大徳の『八宗綱要』を読んだ時以来。如来蔵思想にたち、今日では中国作と推測される『起信論』が起源ではなく、龍樹菩をその起源とするのだが、浄土真宗の外にいる人ならではの視点で、面白かった。

他にも ずいぶん予期せぬ刺激をいただいたが、岡野さんの紹介で春秋社から出ることになった『仏敵』と、華光誌をお渡してて、お別れ。次回の感想が楽しみ。

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6月の華光誌輪読法座

平日なのに、広島や愛知からの参加があった、華光誌輪読法座。

継職法要のシンポジウムの後半を読む。

M師の法話。平易な言葉ながら、時、常識を超えたような行動を通して、阿弥陀様のおこころを身近な話題としててお伝えくださる。 結局、どんな尊いお示しも、人ごとであったならば、絵に描いたもちだ。それが、自分ひとりの問題としてお聴かせていただけるのかどうかで、まったく意味が代わってくる。 「このご法座も、阿弥陀様のご本願も、わたしのひとりの問題ですよ」と、お聞かせいただいた。

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『ビリギャル』

今日は、長女と二人だけだったので、夕食を作って食べてから、二人で夜の映画館へ。

関心はあったが、これは「テレビ放映を見ればすむよね」に仕分けしていたビリギャル』。ところが、最新の「ヤマサキズム」の映画コーナに、「もっと早くこの映画を子供にみせておければ」とあったので、受験年代の長女と一緒となら行ってもいいと思った。

『学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて慶應大学に現役合格した話』と、長いタイトルを原作にした、実話に基づくハートフルなお話。

毎朝はBSの「あまちゃん」で始まるという3年(?)遅れのあまちゃんブームのぼくとしては、しもぶくれで昭和顔にも見える有村架純の天才級のおバカぶり(おもしろすぎ)と、大ブレンク中の吉田羊の母子がよかった。

なによりも、先生や大人からは、落ちこぼれで、クズといわれ、自分でも底辺を漂っていると思っている少女を、一個のかけがえのない人格として、その成長の可能性を信じている母親と、塾講師の姿勢には、脱帽。しかも、ただ尊重するだけでなく、やる気をおこさせ、結果を生み出していくコーチング技術も大したものだった。

子供も喜んで観ていたが、感想を聞くと、
「あんな、先生に会ってみたいものやね」。

現実はね…。マンツーマンの個別ならではなので、映画では、悪人にも見える教師も、至って教育熱心な、真面目な先生でした。

学校の先生だったり、塾の先生だったり、母親だったり、ときには、さやか本人だったり、いろいろな人に共感したり、投影したりしたけれど、さすがに父親はどうも、、、。

同時に、もう五十をすぎたおっさんだけれもど、まだやれば可能性があるんじゃんと、夢みるのでした。そんな青くさくい精神も、ぼくの中にはあるので、まだまだ発展途上?

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華光誌編集作業

6月は華光誌の編集月だ。

土曜日、日曜日、支部長研修会だったので、本来ならば、事務所の皆さんには休んでいただくのだが、今回は、華光誌の印刷所渡しの期限が迫っているので、休みを、火・水曜日とずらしてもらって、最後の作業。おかげで、予定どおり、完了して、最終の確認をしてから、明日、印刷所に渡す。完成は、今月末で、30日に発送予定。それまで各行事の案内文の作製にかかる。

今号は、先日、父が九十歳になったのを記念して、久しぶりに父の誌上法話を掲載した。といっても、ここ2年はご法話をしていないので、以前の「正信偈講讃」を起こして、誌上講義として掲載した。長くなったので、次号も後編が続く予定だ。本来は、『三帖和讃』に続く、単行本として、『正信偈講讃』を発行したいが、なかなか編集が進んでいない。すみません。

先日の支部長研修会で、自己紹介の時、悟朗先生は、「私を知らない人いますか?」と、みんなを笑わせていた。そのあと、「私の法話を聞かれたことのない人はいますか?」と言われたが、さすがに、今回の顔ぶれでは、誰もなかった。が、同人の中でも、DVDなどで聞いたことがあっても、なまのご法話を聞いたことがないという人も、ちらほら現れているということを、あらためて思った。

これからも、元気なかぎり、顔を出したり、一言、頂きたいものですね。

 

 

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一斉清掃

支部長研修会の二日目。朝の開始と、町内会の一斉清掃の時間がかぶる。清掃は、年に4回、学区や町内会ごとに南区で一斉に行われる。今年は、当番に当たっているので、参加。

会館では、ご近所のことで、朝の勤行時は、行事鐘は鳴らさない。が、会館の回りを掃除していて、勤行の声が、外によく聞こえてきて、驚いた。「ああ、今日はお正信偈か。いま、弥陀成仏のご和讃か」と、内容までよく聞こえて来る。おかげで、終わったころに、早めに切り上げさせてもらって、支部報告の会議に参加できた。

こんな調子で、念仏の大合唱や、号泣念仏の声が響き、聞こえているのなら、確かに、「どうもあそこは妙なところだな」と思われても致し方ないと思わされた。あとは、深夜遅くまで、騒ぐのもご法度やね。

こちらが知らないだけで、ご迷惑をかけているので、町内の行事には、ボチボチでもお付き合いさせていただております。

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『仏敵』

今年の支部長研修会は、初めて『仏敵』を取り上げることにした。

華光会といえば、『仏敵』である。が、旧仮名遣いで、表現も難しくて読みづらく、有名なのに、敬遠されがちでもあった。これからの時代、若い人にも、より広く、また親しみをもってもらいたいと、東京の春秋社から、現代文に近く、活字も読みやすいものを発行した。いまのは、新版である。それから、もう 年もたっている。

今回、取り上げるということで、皆さん、あらためて読んできていただいた。感想を分かち合って時、「華光会に入ってすぐに、3度読めば、3度意味合いが変わるとういことで、3回続けて読んだけれど、まったく変わりませんでした」という方があったが、共感する声が多くて、皆さんも同じようなものだということ。確かに、これは、悟朗先生の有名なエピソードでもあるが、3度は、連続という意味でとなくて、求道の始め、求道中、そして獲信後の境地が変わった時に読めば、まったく違う輝きが現れるのだ。実際、読めば読むほど、関心したり、教えられたりするところが違うのである。

『仏敵』の特色は、そのまま華光会の特色でもある。そのことは、あとがきで悟朗先生が解説されているとおりである。

『仏敵』は、若き日の伊藤康善先生の、求道物語であり、信仰体験記で、浄土真宗にあって、希有なる仏書である。同時に、堀尾よし同行を慕って野口道場に集う、無名の老若男女の信仰体験記であったことを、改めて教えられた。それぞれの求道の過程や一念体験が語られると共に、およしさんと伊藤先生、藤太郎さんと伊藤先生などなど、ご法の勧めかた、求道者との対峙の姿勢という点から見ても、希有なる書だといっいい。

改めて、今日の浄土真宗に一番かけている「同行学」という実践の書物なのでもあろう。

これからは各支部法座でも取り上げていきたいので、皆さん、ぜひ、お読みください。読まれた方があっても、再読ください。

ちなみに、春秋社では、品切れとなっているので、華光会までご注文ください。

Amazonでは、中古も扱われていますが、送料込みで3000円と高額なようです。ましてや古い、華光会版は、7000円で取引されていて、びっりく。http://www.amazon.co.jp/gp/offer-listing/4393169018/ref=sr_1_1_twi_1_tan_olp?s=books&ie=UTF8&qid=1434700668&sr=1-1&keywords=%E4%BB%8F%E6%95%B5

もちろん、華光会では、定価で販売中。

http://homepage3.nifty.com/keko-kai/book/butteki2.htm

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光明本尊

Img_7903真宗連合学会のために、北大路の大谷大学へ。

この学会も、大谷大学も久しぶり。

講演は、名畑崇先生の「真宗のすがた~光明本尊の出現」

Img_7893光明本尊といえば、本願寺系統でなく、仏光寺系だけのように思っていたが、聖人在世時より、すでに作製されていたという。

中央に、「南無不可思議光如来」と大書きされて、三十四条の光明を放っている。

Img_7894両脇の「南無阿弥陀仏」の六字と「帰命尽十方無碍光如来」の十字からも光明が放たれ、

釈迦、弥陀二尊の立像からも光明が放たれている。

Img_7896左側に、大勢至菩薩と、インド・中国の九人の高僧。

右側は、聖徳太子とその眷属。

Img_7902その上に、源信、法然の日本の七高僧に、法然聖人の高弟である聖覚法印と釈信空、そして親鸞上人(ママ)と、同格で「釈真仏」が描かれ、その上に真宗の有力門徒が多数描かれている。

今回の講演では触れられなかったが、この形がもとで、それぞれが独立し、純化されたのが、今の浄土真宗の内陣だという。中央のご本尊は、木像でも、絵像でも、また名号でImg_7899も、弥陀一仏。親鸞聖人と、歴代門主(もしくは蓮如上人)は脇で、余間に、聖徳太子と七高僧が安置されている。

つまり、門弟中心の教団から、覚如さまから蓮如さまへと、親鸞さまの血脈である本願寺が勢力をもつ過程で、真仏以下の門弟が排除されて、本願寺の歴代門主に代わった。あと、七高僧も、親鸞聖人のお正信偈や高僧和讃に沿って七名に限定されて、天親菩薩と曇鸞様をつなぐ、菩提流支三蔵、善導様の後継者である懐感、法照、少康様が外されていく。

その中で、注目は、「釈迦如来」である。

実は、今回の講演で、光明本尊は、浄土真宗の信仰の形を現していること。そして、「興福寺奏状」にある、専修念仏の者が、弥陀一仏のあまり、仏教の祖である釈尊を蔑ろにしているという批判に対する答えでもあるというのである。

それは、上下の讃文にもあられわている。
下段の冒頭に、大経の「出世本懐」文が出されて、それに続いて、十二願、十三願、十八願、十一願文が続いていく。上の段も、親鸞聖人の正信偈は「如来正意興出世 唯説弥陀本願海」のところが引かれている。つまり、けっして、釈尊を蔑ろにはしていない、お釈迦様の出世から始まっているという表明だというのである。

しかしながら、結局、釈迦如来像は、阿弥陀如来に吸収される形で、今日の真宗のお仏壇には安置されていないのである。
聖徳太子(和国の教主)は生き残ったのに、それは何故なのかというところまでは言及されないまま、時間切れ。

終了時間を勘違いされていて、これからというところで終わってしまったのは残念。

博物館に現物が展示されたが、とても保存状態もよく、美しくて感心させられた。

余談ながら、小さいながら大学の雰囲気もよかった。

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みそプリン

今月は、連れ合いの劇団の公演月。神戸、福井であって、その後、青森や岩手の各市で公演が続く。

越前町での公演から戻って、プリンをお土産。

Img_7890あさひ愛農園手づくりみそ工房「ハレノヒ」の、みそプリン!

みそとプリンという、ちょっとミスマッチ感があるが、この和と洋の組み合わせが最高。

濃厚な味なのに、とてもマイルド、これまで食べてプリンの中でも、一番おいしかったかもしれない。

彼女は、すぐに東北へ。今度は、長期。

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宿縁

アメリカのロサンゼルスから、急遽、同人か来館された。
父や母と同世代の方なのだが、老齢のお二人で、日本にこれらたのだ。お二人のご兄弟や親戚を訪ねるため日本中を回っておられる。

もう米寿をすぎられた老念仏者のお言葉は、力強かった。

「今回の目的は、悟朗先生ご夫妻にお会いすること。そして、最近の私のお念仏体験を聞いていただくことです」と、一念の時のお念仏とはまた違った、心のお葬式がすんだものの、腹底からの念仏体験をお聞かせくださった。

そして、「ただ、自分が喜んでいるだけではダメですよね。これをお伝えしていかねばならない」。

「でも、なかなか聞いてくださる方がない。なぜ、こんなにも尊く、易い教えなのに、せっかく華光会館の近くに住んでおられる方が、どうして仏法を聞かれないのでしょうか。」

遠く、アメリカからでも、縁ある人は、同じ一味で喜び合える。宿縁といえばそれまでだが、どんな遠く離れていても、念仏の絆で繋がっていることが、不思議で、尊かった。
 南無阿弥陀仏

 

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同窓会

 大学の同窓会は、年齢を横断した信楽ゼミ同窓会に出席するが、卒業年次の同窓会も2年前から始まり、今回は2回目。
案内文を書かれた幹事が、その直後に急逝されるという悲しい出来事もあって、偲ぶ会のような雰囲気に。分かっているだけでも、同学年の3名の方が、往生されている。当たり前だが、次回以降もまた増えていくのだろう。

ぼくは、真面目に大学には行っていたが、会館の手伝いをしていたので、皆さんと、あまり交流がない。
半数以上が、「お初にです」という感じだが、ボチボチと懐かしい顔にもあえて、よかった。
ぼくは面識がないのに、連れ合いの知り合いがいたりするのも面白かった。

これは、どの同窓会でも同じだか、子供がまだ小さいぼくにとって、すでに子供が大学生や社会人となったり、もう孫がいたりするのは、ちょっとうらやましくもある。
ただ、中学や高校の同窓会と一番違うのは、業界の集まりだということ。大学時代のお付き合が、今の仕事にも繋がっている方が大半だ。その点では、ぼくの場合、同じ僧侶でも、立場が少し違うので、新鮮な気がした。ぼくの知らない違った角度から真宗の現状を垣間みせてもらって、逆に自分の役割もはっきりしてくる。その点では、いろいろと刺激をいただけて、有り難かった。

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広島支部法座IN安芸高田

Img_7878例年、7月に家庭法座が開かれていたが、今年は7月に宮島で「壮年の集い」があるので、ちょどう1ケ月早まった。

Img_7880_2いつもは咲いている蓮も、今年はまだ蕾もない。田んぼも、田植が終わったところで、少しだけだが風景が違う。

田んぼでは、白鷺が獲物を狙っていたが、人間Img_7877をあまり警戒していない。

法座の前に皆さんで、昼食。お弁当なのだが、他にも、家人の心尽くしでお惣菜がでImg_7862る。ナバは、この家庭法座Img_7869の名物。今回は、グミの実が出てきて、みんな懐かしがっていた。が、ぼくは、街に住んでいるので、実をとって食べるという縁はない。でも、不自然な甘味もなく、ほのかな甘さと、酸っぱさは、とても自然で、懐かしい味には違いない。

例の一燈園の三上先生と、余命10日の不良少年との尊Img_7868い出会いを紹介。

Img_7866「とても感動的な話しでしたが、せっかくの出会いも、後生の解決ができないのなら、また愁嘆の涙を流すし、迷いを繰り返していかねばならない」との感想をいただく。もちろん、ここから、聴かせていただくことも多いし、わが身に置き換えて知らせていただくこともあるが、その中で、浄土真宗で、何を喜んでいくのか、カドを押さえておられる方も多くて、そのご聴聞ぶりに感心させられる。

 

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九十歳

「到底、二十歳までは生きられないだろう」

若い時から病弱で、10代で不治の病である結核になった、若き日の父の切実な思いである。そのことが、仏法を求める大きな機縁ともなるのである。

その後も、常に、長生きは望めないと思っていたそうだが、60歳の還暦を迎えた時に、

「へえ、けっこういけるものやな。まだまだ」と思ったというのだ。

それが、とうとう親鸞聖人のご往生の年齢まで生きられた。法然さまも80歳、蓮如さまも88歳と、浄土真宗のお祖師方は、高齢までご活躍された方が多い。

このところ、口数はめっきり減った。もう無駄ごと、空言は話されないのだろう。

九十歳になった、父の日常の姿から、お味わいさせていただくことが、ぐーんと増える今日この頃。

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聖典講座~「寿命無量」十三願成就文

 また第十三願の願文は、

「たとひわれ仏を得たらんに、寿命よく限量ありて、下、百千億那由他劫に至らば、 正覚を取らじ。」(第十三願・寿命無量の願)

とある。同じくこれだけでは、衆生には真意がすべて理解しきれないので、お釈迦様が十三願「成就文」をご説法くださり、初めて阿弥陀様の寿命無量のお意(こころ)が明確になってくる。 つまり、

(1)その寿命は、数え尽くせぬ長さで、全宇宙の衆生が集い、智慧の限りを尽くし、長い年月をかけて数えても、如来の寿命を知ることはできない。

(2)浄土の聖衆も、その寿命を数え尽くすことはできない。

(3)浄土の声聞や菩薩の数もはかりしれず、無量の徳を得る。 などが説かれていiる。

つまり、十二・十三願の成就文をとして、法蔵菩薩が、無量寿、無量光の阿弥陀様となられたことだけでなく、その浄土の聖衆もまた同じように、光明無量、寿命無量と成って、ほめ讃えられることが窺えれるのである。まさに、親の宝が、まるまる子の宝となるのである。

(参考) 阿弥陀(梵語の音訳)

┌Amitayus・アミタユース=「無量寿」と訳す 
└無量寿=三世の衆生-時間的-体-慈悲面(作用の本源)

┌Amitabha・アミターバ =「無量光」と訳す 
└無量光=十方の衆生-空間的-用-智慧面(作用・はたらき)

∴『無量寿経』等、名を顕す時は、「無量寿」に収められる。

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聖典講座~「光明無量」十二願成就文

『大無量寿経』も、「如来浄土の果」に入り、「略説」【十】と「広説」【十一~二一】に分科されるが、前回は「略説」で、阿弥陀仏となられたそのお徳と、浄土有様について、簡略に説かれたので、「広説」では、広く、仏身と聖衆、及び浄土の荘厳が、詳細に述べられていく。

 今回は、そのうち、まず仏身についての徳で、まず光明無量と寿命無量なることが讃えられる。

 これは、第十二願が成就して、光明無量の阿弥陀仏となられたことを示すもので、阿弥陀如来の光明の徳の偉大なることを、各方面から讃嘆される。   さらに、第十三願が成就して、寿命無量の阿弥陀仏になられたことが示される、特に大切な成就文といえるのだ。  

 法蔵菩薩の第十二願の願文は、

「たとひわれ仏を得たらんに、光明よく限量ありて、下、百千億那由他の諸仏の国を照らさざるに至らば、正覚を取らじ。」(第十二願・光明無量の願)

となる。しかし、これだけでは、衆生には理解できない。それをお釈迦様の説教である十二願の「成就文」を通すことで、初めて阿弥陀様の真意、第十二願のお意(こころ)が明確になってくる。
つまり、
(1)諸仏の光明も及ばぬほどの最尊第一で、光明無量である。
(2)それゆえ、この仏を十二光仏(図解したが、ここでは略するので、増井悟朗著『三帖和讃講讃』上巻25頁を参照ください)と申しあげる。
(3)光明にあった衆生は、三毒の煩悩が消滅し、身心は柔軟、歓喜踊躍して善心生じる。
(4)三悪道の衆生さえも、苦悩から解放され、終には解脱をこうむる。
(5)その輝く光明は、十方国土にも及び、釈尊の称讃するごとく、
  その威徳は、一切の諸仏等にも讃嘆され、その徳を聞いた衆生も往生を得る。
(6)さらに往生した者は、弥陀と同じ光明無量となり、弥陀仏同様に讃嘆される。
(7)私(釈尊)が、昼夜一劫かけても、無量寿仏の光明の徳を説き尽くしえない。

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ミスの対応

父の90歳の誕生日を前に、名古屋から姉がやってきた。 もう一つは、まもなく別れていく子供たちに会いに来てくれたのだ。

2週間前に、伏見の墨染にあるイタリアンを予約した。 一度、夜のコースを食べたが、おしいかったし、値段もとてもやすくて、みんな気に入った。

タクシーも予約し、今日は準備万端。 そのタクシーが時間どおりに到着。

でも、ぼくはちょっとイライラしていた。下の子の学校から帰ってこないのだ。しかも連絡がない。遅れるなら電話をもらうことになっていたが、、。仕方がないので、ぼくだけ残り後から合流することにした。

なかなか子供が帰ってこない。心配になってきたところへ、電話。子供だと思ったら、相手は、連れ合いから。

これが予想外のことを言われる。

「お店が予約ができていなくて、すでにお客さんでいっぱい。どうしたらいいのか、困っている」。

「ハア?」

ぼくのミスか。でも、確かにここに電話した。その時、彼女は留守だったので、事情がわかっていない。このお店は、若いご夫婦で二人だけの小さなお店で、ご主人がシェフ。奥さんが、予約をうけられたが、まったく覚えなおられない様子だというのだ。 こちらは 年寄りを抱え、お店の前で困っているが、お店も接客で大忙しとのこと。

確かに電話した。もしかすると、日時を間違えたか。、予約したぼくがその場にいないので、要領が得ない。すぐにお店に電話。

「もしかして、日や時間を間違えましたか」と。

「いや、その…、いまここではよくわからないなくて、こちらのミスだと思うのですが…」と、要領をえない。

予約した時のことをよく思い出した。お店の隣が、父と母の病院で、その送迎の後で、電話したからだ。

「予約は20日の水曜日の午前中。そちらから、『9名から貸し切りですが、8名ならほかにお客さまが入られます』とおっしゃいました」と、予約時の状況を話し出すと、向こうもハッと思い出さて、「料理もBコースでお聞きしていますね」とのお返事。察するに、予約は受けたものの、そのメImg_7856モを紛失されたのか、記帳されなかったのが、完全に忘れられたのだ。

しかも今日は、すでにお客でいっぱいで、待ってもらっても無理だとのこと。

仕方がない。

電話で、「今日は、大事な集まりで、楽しみにしてました。Img_7842せめて、タクシー代ぐらいはお願いできないのですか」というと、最初は、「次のお店のタクシー代なら」といっておられたが、追いかけてタクシー代を払ってくださったようだ。

Img_7847なんとか次のお店も予約できたころに、やっと子供が帰って来て、ぼくも追いかけ合流。

子供は遅れるは、自分の予約ミスかもしれんは、次のタクシーは捕まらんはで、お店に着く前にすっかり疲れた。  

同じ商売をしている姉には、人ごとではなっかたようで、ひとしきり話題になった。

Img_7850ミスはしかたない。そして、その後の対応が大切だとつくづく思った。うまく対応すると、逆にビジネスチャンスでもある。若いお二人には、いい経験にImg_7857_2なったのだろうか。 翌日落ち着いてから、あらためて電話があるかなと思っていたがなかった。完全に、予約メモを紛失されて電話もできなかったのだろうな。それとも、その気がなかったのか。 好意的にはとらえているが。

http://asanoya.cocolog-nifty.com/blog/2015/06/no-2042.html

口は、イタリアンだったが、豆腐料理に変わり、ワインが日本酒に変わった。

うーん。また行ってもいい? いまは、半分、半分かな。

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