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「唯聞愀嘆声」

 永代経のある分級座談会。四苦八苦の苦しみに、嘆き声が溢れていた。老の悲哀、病の悲嘆、そして死への恐れ。高齢の親の姿に懺悔される方もある。若くして余命宣告を受けた方がお別れを告げられる。次々と起こる悲劇的な愛別離苦を前に、泣き崩れる方もある。まさに人生の縮図だ。

 『口伝抄』に、「凡夫として毎時勇猛のふるまひ、みな虚仮たる事」という章がある。愛別離苦で父母・妻子の別離を悲しむのは、凡夫としては当然のこと。むしろ、その時に、歎くものを諫め、勇猛のふるまうのは、聖道門の行をなしているのであって、凡夫としては虚仮だといわれる。「まず凡夫は、ことにおいてつたなく愚かなり」なのである。

 それぞれ重い空気で、座談会が進むなかで、悟朗先生が口を切られた。「私の気持ちの問題でしょうが、皆さんのお話を聞いていても、心が空しくなるというか。何もみのりがないです」と。

 そうだ。確かに、四苦八苦の現実に、悲嘆するのは凡夫としてありのままの姿ではある。しかし、もしただ悲嘆に終始するだけで終わるのなら、あまりにも空しいのではないか。

「帰去来、魔郷には停まるべからず。
曠劫よりこのかた流転して、六道ことごとくみな経たり。到る処に余の楽なし、ただ愁歎の声を聞く。この生平を畢へて後、かの涅槃の城に入らん」。

と、善導さまは仰った。これまでの迷いの世になって、六道をことごとくへ巡ってきた間に、どれほどの悲嘆の涙を流し、声を聞いてきたことだろうか。「唯聞愀嘆声」を繰り返すだけなら、また迷いを繰り返していかねばならない。その迷い打ち止めにするのは、ただ聞くのは嘆きの声ではなく、南無阿弥陀仏の親の呼び声を「唯聞」のである。

 もし、嘆き悲しみ涙を流し、そのことにどれだけ共感な慰めがあったとしても、そこに「南無阿弥陀仏」の声が響かなければ、空しいだけの迷いが続くのだ

「なんのためにここにお出でになりましたか。ただ、泣きにおいでになったのではないはずです。ここは、南無阿弥陀仏を称えさせていただく所です」と、「南無阿弥陀仏」をお勧めして、一同で称えさせていただいた。南無阿弥陀仏。

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