聖典講座~法蔵菩薩の御修行
正宗分(本文)に入って、法蔵菩薩の発願の様子が詳しく説かれてきたが、ここからは、法蔵菩薩の修行の有り様が述べられる。
世間においても、物事をなすには、立志や願望だけでは成り立たず、その願いに基づいた実行(修行)が必要になる。阿弥陀さまは創造主ではない。因果の道理を歪めることはできないのだ。その上,法蔵菩薩は、老若男女を問わず、十方と過去現在未来の三世に渡って、あらゆる人をもれなく救い取りたい、という途方もなく大きな願いを立てられたのであるから、それを実現させるための修行も、質・量ともに、われわれの想像を絶したもので、兆載永劫にわたり、清浄の心で成し遂げられるのである。
そのご修行は何か。本文や、テキストの現代語訳を味わえば、充分にそのお心が伝わってくる。ここでの解説は逆に蛇足だと思うが、こんなふうに味わった。
現代語訳の【九】は、大きく三段に分科される。
(1)「釈尊が阿難に仰せになる。『法蔵菩薩が、このように述べ終わると、
~世に超えすぐれて深いさとりを願い求めたのである。』」
◎まず「重誓偈」の結びで、本来は前回の【八】に含まれるものだが、重誓偈を述べ終わると、その奇瑞の証明に応じて、奇瑞が興ったことが示される段。
(2)よ、そのとき法蔵菩薩は世自在王仏のおそばにあり、
~はかり知ることのできない長い年月の間、功徳を積み重ねたのである。」
◎勝行段=まさしく、諸菩薩に超えすぐれた修行をなさったことを述べられる段。ここが、修行の中味の中心である。すなわち、法蔵菩薩は四十八願及び三誓の誓いを満たすため、一向専心になって不可思議兆載永劫のあいだ、
(a)意業(こころ)に三毒の煩悩をおこさず、
(b)身業(み) に上をうやまい下をいつくしみ、
(c)口業(くち) に善語を用いて、
(d)自行化他(自ら行じ、他を導く)の二利の行をおさめてくださったのである。
(3)「その間、法蔵菩薩はどこに生まれても思いのままであり、~
すべてを思いのままに行えたのである。」
◎勝果段=上の不可思議兆載永劫のあいだの修行中、その道程として時々に受けられた勝れた果報を述べる一段。例えば、草木が実を結ぶ前にまず花が咲くように、菩薩が修行して仏果を得られるまでの長い間には、いろいろな勝れた身を受けられることがあるので、この一段に法蔵菩薩も、御意にまかせて自在に人天の身を受けられ、他に並びのない勝れた果報を受けられたことが述べられている。
特に、(2)の勝行段の中味は、尊いので、本願寺出版社の現代語版を引用したので、味わっていただきたい。()内は、小生の註。
不可思議兆載永劫の間に菩薩の修行に励まれたのだが、それは
「(まず意業(心))貪りの心や怒りの心や害を与えようとする心を起さず、また、そういう想いを持ってさえいなかった。すべてのものに執着せず、どのようなことにも耐え忍ぶ力(忍辱)をそなえて、数多くの苦をものともせず、欲は少なく足ることを知って、貪り・怒り・愚かさを離れていた(持戒)。そしていつも三昧に心を落ちつけて(禅定)、何ものにも妨げられない智慧を持ち(智慧)、偽りの心やこびへつらう心はまったくなかったのである。(次の身業は)表情はやわらかく、言葉はやさしく(顔も口もにこやかな和顔愛語)、相手の心を汲み取ってよく受け入れ(受容的な態度です)、雄々しく努め励んで、少しも怠ることはなかった(精進)。ひたすら清らかな善いことを求めて、すべての人々に利益を与え(利他)、仏・法・僧の三宝を敬い、師や年長のものに仕えたのである。その功徳と智慧のもとに、さまざまな修行をして、すべての人々に功徳を与えたのである(令諸衆生・功徳成就)。
空・無相・無願の道理をさとり、はからいを持たず、すべては幻のようだ(空の真理に目覚められた)と見とおしていた。(そして口業で)また自分を害し、他の人を害し、そしてその両方を害するような悪い言葉を避けて、自分のためになり、他の人のためになり、そしてその両方のためになる善い言葉を用いた。国を捨て、王位を捨て、財宝や妻子などもすべて捨て去って、すすんで六波羅蜜(布施から始まる大乗の菩薩行)を修行し、他の人にもこれを修行させた。
このようにしてはかりしれない長い年月の間、功徳を積み重ねたのである(積功累徳)。」
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
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