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4月の輪読法座~信心の沙汰~

  巻頭言の『信心讃嘆の場』を読む。
 その前半は、蓮如上人が、今生事になっている法座のあり方を誡められている点に触れている。

 浄土真宗は、人々が集う法座こそが教化の生命線であることは言うまでもない。
 ところが、浄土真宗が興隆した蓮如上人当時ですら、たびたび、法座のあり方を誡められねばならなかった。
 たとえば、一帖目十二通の御文章。
 本来の法座とは、空しく三悪道に沈むこの身が、せめて一月に一度でも、念仏修行の人達が道場に集まり、「わが信心は、ひとの信心は、いかがあるらんといふ信心沙汰をすべき用の会合」であるのに、近頃は、今生事の集いとなり、信心の沙汰もないことは、「言語道断あさましき次第」だと強く誡められ、今後は、信心の沙汰をする場とせよと、命じられている。
 また三帖目十二通(毎月両度章)でも、
 法座は、「他のことにあらず。自身の往生極楽の信心獲得のためなるがゆゑなり」と明示されている。ところが、最近は、信心の沙汰もなく、「ただ酒・飯・茶」で、みんな退散するのは、まったく仏法の本意ではない。法座は、「不信の面々は、一段の不審をもたてて、信心の有無を沙汰すべきところ」なのだから、今後は、お互いに「信心の讃嘆あるべきこと肝要なり」と、強くお勧めになっている。
 つまり、法座は、わが身の信心の沙汰をする場であり、不信のものこそ、一層、心をかけて聴聞せよと、蓮如上人は、繰り返し強調されているのである。

  しかし、悲しいことに、蓮如上人の誡めは、まったく生きていないのが現状だ。
 幸いなことに、現在の華光会の法座には、後生の一大事に心をかけ、自他力廃立を厳しく問うという蓮如上人の真精神がそのまま息づいてると自負している。今日の輪読法座でも、ご示談の場面があって、ぼく自身も有り難かったが、これこそ生きた信心の讃嘆の場にほかならない。

 とはいうものの、実際、信心の沙汰(=讃嘆・つまり、わが信心や、人の信心やとの話し合い)とは、いかにあるべきか。言葉にすれば、分かった気になるが、実際となると、けっこう難しい。いろいろと皆さんのお声が聞けた。結局のところ、答えを覚えることではなく、法座に座っている私自身の問題にほかならないのである。いま、ここで、私の態度、姿勢が問われてくるのだから、法座は、厳しくも、面白いのである。
 感じることは多かったが、今日は、このあたりで。

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