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2015年4月の24件の記事

小冊子法話『凡夫が仏になる』

Img_6068 小冊子法話の第3弾、『凡夫が仏になる』が完成してきた。

 運営委員長のRさんのご尽力で、永代経法要に間に合った。 誌上法話に加筆して、さらに関連する巻頭言として、「仏さまに向き合え」を加えてを冒頭につけた。

 仏教とは「仏になる」教えだ。でも、簡単に仏になるというが、ほんとうは、たんへなことである。まして、凡夫は凡夫のままで、決して、仏になることはないのである。ところが、浄土真宗は「凡夫が仏になる」教えなのである。
 だからこそ、庄松同行は、「キリスト教が入ってきても、凡夫が仏になるより上はこんぞ」とおっしゃり、源左同行は、「珍しいことだ。凡夫が仏になるということだ。」と喜ばれたのである。泥凡夫のこの私が、仏に成られていただくお仕組み、おこころを聴かせていただくのが、真宗のご聴聞だといっていいのである ……。

 広く皆さまにお読みいただけると有難いです。よろしく!

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「はちす」~寒中子供大会感想集~

 2月の寒中仏の子供大会の感想集「はちす」完成した。仏青通信として造られたが、同人の皆様には、後日、送付することになっている。お楽しみに!

 2月の寒中の子供大会はバラエティー豊かな有り難いご縁だった。どうぞ、7月31日(金)~8月3日(月)の夏の仏の子供大会へもご参加ください。

 今日は、仏青の皆さんと、子ども手伝っての発送作業。  

 最近、仏青の参加者が少なくなっている。それで、6月の仏青大会の案内状に、お誘いの言葉を一筆して発送することにした。 今回はYさんを中心に頑張ってくれた。

 6月の「仏青大会」昼座は、京都支部との合同と決定。

http://homepage3.nifty.com/keko-kai/event/2015/detail/06/bussei2015-6.htm

 10月は高山で、高山支部との合同法座だ。ここには年齢制限がないので、皆さんもお参りください。

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親子

Img_1927 今年の長女の誕生日にデジカメを贈った。

Img_1929 連れ合いのスマホで、、。でも、二人とも撮影に夢中で、撮られていたのも知らない。

Img_1937「親子ですね」、と笑われた。

確かに……。笑ちゃいます。

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鳥羽の藤

Img_1960_2 京都市の水環境保全センターで、4日間だけ「藤」の無料公開をやっている。去年は、会場についた時には、受付時間が終了していて、残念な思いをした。

Img_5898 晴天の日曜日、法座の前に出かけることにした。でも下の子は、寝ているほうがいImg_5894いというので、3名で出かけた。

  交通アクセスが不便な上に、近くImg_5964_2にコインパーキングもない。駐車場は長蛇の列で、Img_5903_230分以上待って、やっと施設内へ。でも、ここから迷ったしまう。施設内を無料シャトルバスが運行しているのを知らずに、ドンドン歩きだしたのだ。しかも反対回りで、途中から施設内は歩行禁止になって、外周をぐるりと回るはめに。最初は下水処理場を眺めたり、消防学校があったりで、南区なImg_5929_2のにまったく見知らぬ風景だと喜んでいたのが、そのうち、名神高速道路の下まで出てきたら、ずいぶん寂しい雰囲気に。しかも、まだまだ入り口が見つからない。そのころには回り誰もImg_5943_2_2居なくてなり、心細くなってきた。結局、施設の外周の3/4近く歩いて、汗だくになって、やっと到着した。

 Img_5959_2_2中は混雑していたが、藤は見事に咲き誇っている。藤色は、くっきりした紫色ではなく、淡い雰囲気がいい。芝桜のはっきりした色とのコントラトスもきれいだ。

 30分近くかかった道程を、帰路は、無料シャトルバスに乗って、3分ほどで到着。知らなかったら、尋ねればよかったのにね。
 お疲れさまでした。
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京都支部法座~真向かいに向き合う~

 最近、いろいろなところで話している、一燈園の三上先生と卯一少年の切なくも、尊いエピソードを中心にお話する。結核菌入りのお粥を食べるところ、親の名を呼び「ここにおるぞ!」と答えるところ、そして最後に安らかに合掌して亡くなるところなど、涙を流して聞いてくださった。その大半が、人ごとの「いい話」としてではなく、阿弥陀様に悪態をついている自分の姿として、もしくはそれを包み込む阿弥陀様の大悲をおこころを聞いてくださっていた。

 いつもと一味違う話だったが、たいへん好評で、その後の座談が盛り上がった。皆さんのお声を聴くことで、また僕自身も違った角度から味わわせていただく。この題材は、必ずしも廃立の厳しい他力回向信ではないので、逆に、皆さんのいまの心境のままに味わっていただけるので、そこが面白いのだ。

 ある方が言われたが、嫌われ者のこの私を、たったひとり畏れることなく、真向かいに向き合ってくださっる方があった。その真実によって、寂しい、冷たいこの私の心にも、温かい大悲のおこころ届いてくるのである。

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聖典講座~法蔵菩薩の御修行

 正宗分(本文)に入って、法蔵菩薩の発願の様子が詳しく説かれてきたが、ここからは、法蔵菩薩の修行の有り様が述べられる。
 世間においても、物事をなすには、立志や願望だけでは成り立たず、その願いに基づいた実行(修行)が必要になる。阿弥陀さまは創造主ではない。因果の道理を歪めることはできないのだ。その上,法蔵菩薩は、老若男女を問わず、十方と過去現在未来の三世に渡って、あらゆる人をもれなく救い取りたい、という途方もなく大きな願いを立てられたのであるから、それを実現させるための修行も、質・量ともに、われわれの想像を絶したもので、兆載永劫にわたり、清浄の心で成し遂げられるのである。

そのご修行は何か。本文や、テキストの現代語訳を味わえば、充分にそのお心が伝わってくる。ここでの解説は逆に蛇足だと思うが、こんなふうに味わった。

 現代語訳の【九】は、大きく三段に分科される。

(1)「釈尊が阿難に仰せになる。『法蔵菩薩が、このように述べ終わると、
 ~世に超えすぐれて深いさとりを願い求めたのである。』」
◎まず「重誓偈」の結びで、本来は前回の【八】に含まれるものだが、重誓偈を述べ終わると、その奇瑞の証明に応じて、奇瑞が興ったことが示される段。

(2)よ、そのとき法蔵菩薩は世自在王仏のおそばにあり、
 ~はかり知ることのできない長い年月の間、功徳を積み重ねたのである。」
◎勝行段=まさしく、諸菩薩に超えすぐれた修行をなさったことを述べられる段。ここが、修行の中味の中心である。すなわち、法蔵菩薩は四十八願及び三誓の誓いを満たすため、一向専心になって不可思議兆載永劫のあいだ、
 (a)意業(こころ)に三毒の煩悩をおこさず、
 (b)身業(み) に上をうやまい下をいつくしみ、
 (c)口業(くち) に善語を用いて、
 (d)自行化他(自ら行じ、他を導く)の二利の行をおさめてくださったのである。

(3)「その間、法蔵菩薩はどこに生まれても思いのままであり、~
 すべてを思いのままに行えたのである。」
◎勝果段=上の不可思議兆載永劫のあいだの修行中、その道程として時々に受けられた勝れた果報を述べる一段。例えば、草木が実を結ぶ前にまず花が咲くように、菩薩が修行して仏果を得られるまでの長い間には、いろいろな勝れた身を受けられることがあるので、この一段に法蔵菩薩も、御意にまかせて自在に人天の身を受けられ、他に並びのない勝れた果報を受けられたことが述べられている。 

  特に、(2)の勝行段の中味は、尊いので、本願寺出版社の現代語版を引用したので、味わっていただきたい。()内は、小生の註。

不可思議兆載永劫の間に菩薩の修行に励まれたのだが、それは
「(まず意業(心))貪りの心や怒りの心や害を与えようとする心を起さず、また、そういう想いを持ってさえいなかった。すべてのものに執着せず、どのようなことにも耐え忍ぶ力(忍辱)をそなえて、数多くの苦をものともせず、欲は少なく足ることを知って、貪り・怒り・愚かさを離れていた(持戒)。そしていつも三昧に心を落ちつけて(禅定)、何ものにも妨げられない智慧を持ち(智慧)、偽りの心やこびへつらう心はまったくなかったのである。(次の身業は)表情はやわらかく、言葉はやさしく(顔も口もにこやかな和顔愛語)、相手の心を汲み取ってよく受け入れ(受容的な態度です)、雄々しく努め励んで、少しも怠ることはなかった(精進)。ひたすら清らかな善いことを求めて、すべての人々に利益を与え(利他)、仏・法・僧の三宝を敬い、師や年長のものに仕えたのである。その功徳と智慧のもとに、さまざまな修行をして、すべての人々に功徳を与えたのである(令諸衆生・功徳成就)。
空・無相・無願の道理をさとり、はからいを持たず、すべては幻のようだ(空の真理に目覚められた)と見とおしていた。(そして口業で)また自分を害し、他の人を害し、そしてその両方を害するような悪い言葉を避けて、自分のためになり、他の人のためになり、そしてその両方のためになる善い言葉を用いた。国を捨て、王位を捨て、財宝や妻子などもすべて捨て去って、すすんで六波羅蜜(布施から始まる大乗の菩薩行)を修行し、他の人にもこれを修行させた。
 このようにしてはかりしれない長い年月の間、功徳を積み重ねたのである(積功累徳)。」

南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

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『パーソナル・ソング』~認知症を考える映画・第4弾~

Tirasi214x300 認知症や介護問題を考えさせられる映画の第四弾は、アメリカ映画の『パーソナル・ソング』だ。

 アメリカの認知症の人々も増加を続け、現在500万人以上といわれている。一方、日本では400万人以上とも、予備軍も含めると800万人以上ともいわれているが、完全な治療法はなく、医療費や介護の費用も増大する一途で、急激に超高齢化社会が進行する先進国では深刻な社会問題となっている。

 もとIT業界にいたソーシャルワーカーが、Ipodを使って、ウツ的にふさぎ込んでいた94歳の黒人男性に、大好きだったゴスペルを聴かせたところ、Img_5747その音楽と共に、突然スイッチがはいったように、陽気に歌い出し、音楽を止めた後も、饒舌に語り出すという反応を目撃する。

 音楽療法というと、なにかクラシックのような高尚(クラシックが高尚だというのは認知の誤りであるが、一般論で)音楽を聴かせて効果があるとか、こんな音楽は、こんな症状に効果があるというのではない。前述のPPCと同じく、その人、その人の生育歴や過去を尋ねていくことで、一人一人の思い出のある曲、つまり「パーソナル・ソング」に出会うことで、その音楽と共に、過去の記憶が蘇り、止まっていた心や体が、活性化され、豊かな表情になるという事例が、目の前で次々と繰り広げられていくのだ。

 完全な治療法がなくても、治療は薬の投与が中心で、莫大な治療費によって財政を圧迫しても、そこには業界と政界のオトナの事情も多々あるのだろう。当然、残念ながら、ひとり数千円のIpodを提供するという予算は生み出されてこないのである。

  しかし、パーソナル・ソングを尋ね、音楽を聞かせることで、本来の内なる力を呼び起こすという試みは、大きな成果を生み出し、大きなうねりが生まれつつある。

 大好きな、思い出深い音楽を聴いて、いきいきとした豊かな姿に変貌する姿は、感動ものだ。結局、ひとりひとりのパーソナル・ソングに出会うことは、目の前の人に向き合うことでもあるのだな。

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『毎日がアルツハイマー2』~認知症を考える映画・第3弾~

150314 認知症や介護問題を考えさせられる映画の第三弾。京都シネマで『毎日がアルツハイマー2』を観た。

 『徘徊~ママリン87歳』同様、認知症の実母を、自立した仕事を持っている娘が介護する点だ。『徘徊』はギャラリーの経営者、『毎日がアルツハイマー2』この映画の監督である。その点では、嫁が、夫の父や母(つまり姑や姑)を介護するという形ではない。

 最初この映画はパスの予定だったが、予告編で「PCC」という聞き慣れないが、馴染みある用語に関連しそうで、果然興味がでてきた。 もしや、いつも勉強している「PCA」に関連するんじゃないのかと。

 「PCA」とは、
 P-Person (パーソン) 人間
 C-Centerd(センタード)中心の 
 A-Approach(アプローチ)アプローチ の略である。

 PのPersonとは、人間一般ではなく、目の前の私であり、あなたのことを指す。つまり、ロジャーズの提唱するところの人間中心人間尊重の心理学といわれるものである。
(ちなみに、真宗カウンセリングは、「D-pca」といわれるが、これは、Dharma based=ダルマ(法)根底にした人間尊重のアブローチである。)

  一方の「PCC」も、
 P-Person (パーソン) 人間
 C-Centerd(センタード)中心の
 C-Carc   (ケア)   ケア の略。

 この場合のPのPersonもまた、人間一般ではなく、目の前の認知症本人を指している。日本語訳にするなら「認知症本人を尊重するケア」ということになる。  

 では「PCC」とは何かを体験するために、関口監督自身が、発祥地のイギリスへ向かう。

 結局、認知症そのもののステージ(段階)はあるが、すべてが一般論に当てはまるのではなく、個々人が、その生育歴も、個人史も、また性格も違うのであり、それらの要素を総合し、いま、目の前にいるひとりひとりをしっかり見つめて関わる以外に、マニァアル化したケアなどないというのである。

 すごく当たり前のことだけれども、逆に、目からウロコの発想。  

 

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まもなく永代経法要

 5月2日(土)・3日(日)・4日(祝)は、永代経法要法座です。

 GMの3日間、たっぷりご法にしたりましょう。

 〆切がきています。皆さん、奮ってご参加ください。

http://homepage3.nifty.com/keko-kai/event/2015/detail/05/eitaikyo2015-5.htm

 華光会の永代経法要法座は、単なる追善供養の法要ではありません。法話も30代の若手講師を中心に6座、信仰体験発表に、信仰座談会など、華光ならではの法の集いです。

 3日間、昼座に3回法要はあります。ただ今年は、永代経法名軸への新規の記載がありません。これは、永代に渡って聞法道場となる華光会館の維持のためのご志納ともなりますので、どうぞ、ご検討をお願いします。

 当番は、新潟・北陸支部の皆様です。どうぞよろしくお願いします。

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『徘徊~ママリン87歳の夏』~認知症を考える映画・第2弾~

   今年は、認知症について考えさらせれるドキュメンター映画を続けてみている。自分自身にも身近なので目につきやすいということもあるが、急増する認知症や介護問題は、日本や先進国での喫緊の課題なので、上映機会も増えている。皆さんにとっても、関心のある身近なテーマなのである。
 第一弾の息子介護をテーマにして『和ちゃんとオレ』については、以前触れた。

http://karimon.cocolog-nifty.com/blog/2015/02/post-3d18.html

 今回は、認知症や介護問題を考えさせられる映画の第二弾で、『徘徊~ママリン87歳の夏』をみなみ会館で観る。
                   
Haikai 大阪北浜。都会のど真ん中に住む、87歳の認知症の母と、それを見守る55歳の娘の温かい物語だ。
 認知症の中でも、徘徊の母がテーマ。一旦、徘徊モードに入ると昼夜関係なくはげしい徘徊が始まるのだ。生まれた故郷、実家の門司に帰ろうと、都会の中を徘徊しつづける。
  とにかく、母と娘のやりとりが面白い。完全にチグハグで、時に感情的に激し爆発させる母親を、まるで駄々っ子をあやすように付き合う娘(母と子が逆転だ)が、ユーモアたっぷりに描かれる。徘徊を責めることもなく、見守りながら、母に合わせつつも、けっして我慢したりするのでもない、彼女の姿勢がすばらしい。
「ほんとうの決断とは、状況そのものを引き受けること」という達観したコメントにあるように、たとえ認知症になったとしても、それもまた一度だけの人生の一部であり、そこに関わるのもまた、一度だけの自分の人生の一部で、決して自分の人生が狂わされたのでもないのだという姿勢が、このゆとりを生み出しているかのようだ。

 都会のど真ん中の孤立した冷たいイメージとはまったく逆で、二人を見守り、時には援助する喫茶店の店主などのご近所さんの、距離を置いた温かさがまたいい。街を行き交う人々も、けっこう親切である。こんな姿をみると、日本もまだまだ捨てたものじゃないなと思った。

 それにしても、老いてなお、歩き続けるその執念と、エネルギーに、ある意味、人間のすごさを感じさせられた。

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真宗法座の集い~大人法話デビュー

 これまで、真宗法座の集いでは、予定した法話の時間はなかった。

 前回、若手のM君に、事前に法話を打診したら、立派なご法話をしてくださった。

 今回は、初世話人のRちゃんに、打診してみた。あまり時間はなかったのに、二つ返事で引き受けてもらう。昨年秋に得度を、今春には教師教習を終え、また仏教学院で研鑚中とあって、実践の機会が楽しみな様子。

 これまでも子供大会や日曜礼拝では経験ずみだが、堂々とした態度での話ぶりは、導入から落ち着いて写真にポーズをとる余裕もあって、なかなかたいしたものだ。

 テーマは、歎異抄第7章の『無碍(礙)の一道』について。これは、3月の講習会で取り上げたところで、僕自身にとっても、馴染みがある。Rちゃんは知らないだろうが、悟朗先生が、歎異抄の中で、一番、得意にされていた章で、何度もお話をくださっている。20代の彼女の味わいも、今までお聞かせに預かってきたことを大切にしながら、いまの彼女のところで、お取り次ぎくださったことが、尊かった。

 これからもよろしく頼みます。

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真宗法座の集い~初日~

 この集いも、もう13年を迎える。広島で一度、二泊三日で一度行っている以外は、原則、全日参加で、定員20名限定した集いである。
 初回から比べると、顔ぶれもずいぶん変わった。変わらないのは、世話人の顔ぶれで、ぼくとTさんだけ。そのTさん、今回は参加費を支払っての一般参加だか、13回続けての皆勤参加である。

 初日、ある程度は構成的な部分もあるが、グループ分けの有無については、参加者の話し合いを経て決まっていくという点では、非構成的である。

 全体会で、みんなが一言、参加の動機や思いなどを語り合い、夜には、グループ分けの話し合い。動機やテーマで分かれていくのもよし、全体会で、そのテーマを深めていくのもよしで臨む。最初は、あっちこっちに話題が拡がる。グループ分けよりも、本題にはいった深い発言もでるが、あまり深追いはせずに、また話題が拡がっても、しばらく泳がせて待つだけの、ぼくの側に経験というゆとりもいただいた。同時に、発言のない方にも配慮したり、ただ効率のよいグループ分けを目的した話題には乗らず、少し時間をかけると、不思議なことに、自然なかたちで、収まるとこに収まっていくのだ。グループの力によるこのプロセスは、面白く、不思議なものである。皆さんを信頼しているだけで、それぞれがバランス感覚を発揮してくださって、自然な形で、それぞれが満足できるグループ分けができた。

 昨年から、仮に出来たグループで、その座り心地を確かめてもらっている。発言云々ではなく、座ってみた感覚を確かめて、自分の居場所があるようなら、そこで進めていく。一見、無駄な時間のように思うが、ひとりひとりが納得し、また自分で決めて進んでいくことで、あきらかに分級座談会に分かれてからの取り組み、態度が違ってくるのである。

 今回の初日の流れは、僕自身の内部の動きも、穏やかで、自然に臨めて充実したものとなった。たぶん、外見は、法話や示談のように派手ではなくて、あまり何も動いていないかもしれないが、今回は、この夜の集まりが、一番、力を発揮することができた時間だった気がする。
 このあたりの事情は、華光誌74-1号の継職法要の記念交流会で、「成長に向かう力」~「何もしないということ」~「聴くこと、伝えることの大切さ」などの項目を参照ください。

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「自力」の再開

Img_5851  ちょうど13年間、毎週続けて通っているが自力整体の教室。月に直すと、156ケ月、週に換算すると624週ということになる。教室の顔ぶれをみても、我ながら、よく続いていると驚いている。

Img_5853_2 ところが、この2月、3月とまったくやらなかった。先生がケガをされて、教室がなかったのだ。昔は、毎日、自宅でも30分程度はからだを動かしていた。が、ここ数年は、散歩やダンベImg_5856_2ルはやっても、自宅での自力はまったくやめている。せめて、お休みの間くらい、週に1度は、自宅でもと思ったのだが、結局、1度もやれなかった。このままではまずいなと、4月からは自力仲間の教室に顔を出す計画をしていたが、幸い、教室が再開されることになった。
 ゆるやかに、からだを動かすことはいい。からだだけでなく、心も整ってくるようだ。Img_5854

 このところ不安定な天気が続いていたが、今日は、快晴で気持ちがいい。

Img_5863_2 ソメイヨシノは、もう散り出したが、教室の前の紅白のハナミズキは、見ごろを少しすぎたところでも、青空に映えている。
 道沿いの伏見稲荷のお旅所の八重桜Img_5861は、まだきれいだ。

 明日からは、真宗法座の集いだ。講師ではなく、世話人としてでるので、準備も、自分たちで行う。名簿や役割表を作り、懇親会のつまみやおやつを買いに行く。自分で創造した法座なので、愛着もあるし、自由に動ける法座ではある。楽しみだ。

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真宗カウンセリング研究会の総会

  輪読法座が終わって、真宗カウンセリング研究会の総会にでる。

  ところが、開始時間になっても、集まったのは代表とぼくだけという惨憺たるもの。 そのうち、2人参加者が増えたが、4名だけでは、あまりに寂しい。会計報告や監査も欠席では形が整わず、これは来月の月例会の冒頭に延期することにした。

  役割の確認や、問題点などを話し合いつつ、来年は、もう少し工夫が必要だと思った。

  総会にあわせて親睦会を開くとか、参加しやすい日時に設定するとか、改善できる点もあろう。世話役も他の仕事で多忙になったり、若手や会員数も減って、確かに停滞気味ではあるが、もう少し皆さんと頑張ってやっていくための努力も必要だと思った次第。

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4月の輪読法座~信心の沙汰~

  巻頭言の『信心讃嘆の場』を読む。
 その前半は、蓮如上人が、今生事になっている法座のあり方を誡められている点に触れている。

 浄土真宗は、人々が集う法座こそが教化の生命線であることは言うまでもない。
 ところが、浄土真宗が興隆した蓮如上人当時ですら、たびたび、法座のあり方を誡められねばならなかった。
 たとえば、一帖目十二通の御文章。
 本来の法座とは、空しく三悪道に沈むこの身が、せめて一月に一度でも、念仏修行の人達が道場に集まり、「わが信心は、ひとの信心は、いかがあるらんといふ信心沙汰をすべき用の会合」であるのに、近頃は、今生事の集いとなり、信心の沙汰もないことは、「言語道断あさましき次第」だと強く誡められ、今後は、信心の沙汰をする場とせよと、命じられている。
 また三帖目十二通(毎月両度章)でも、
 法座は、「他のことにあらず。自身の往生極楽の信心獲得のためなるがゆゑなり」と明示されている。ところが、最近は、信心の沙汰もなく、「ただ酒・飯・茶」で、みんな退散するのは、まったく仏法の本意ではない。法座は、「不信の面々は、一段の不審をもたてて、信心の有無を沙汰すべきところ」なのだから、今後は、お互いに「信心の讃嘆あるべきこと肝要なり」と、強くお勧めになっている。
 つまり、法座は、わが身の信心の沙汰をする場であり、不信のものこそ、一層、心をかけて聴聞せよと、蓮如上人は、繰り返し強調されているのである。

  しかし、悲しいことに、蓮如上人の誡めは、まったく生きていないのが現状だ。
 幸いなことに、現在の華光会の法座には、後生の一大事に心をかけ、自他力廃立を厳しく問うという蓮如上人の真精神がそのまま息づいてると自負している。今日の輪読法座でも、ご示談の場面があって、ぼく自身も有り難かったが、これこそ生きた信心の讃嘆の場にほかならない。

 とはいうものの、実際、信心の沙汰(=讃嘆・つまり、わが信心や、人の信心やとの話し合い)とは、いかにあるべきか。言葉にすれば、分かった気になるが、実際となると、けっこう難しい。いろいろと皆さんのお声が聞けた。結局のところ、答えを覚えることではなく、法座に座っている私自身の問題にほかならないのである。いま、ここで、私の態度、姿勢が問われてくるのだから、法座は、厳しくも、面白いのである。
 感じることは多かったが、今日は、このあたりで。

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門司港レトロ~そして誰もいなくなった

Img_5792 初めて降り立った「門司港駅」。門司港レトロとして人気のある観光地で、港町の風情と、レンガ作りの外観の建物で、町の雰囲気が統一されている。

 Img_5824門司は初めだ。と、思っていた。が、以前、聞法旅行で、門司の「めかり」に宿泊し、散策したことを、観光マップをみて思い出した。正確には、門司港が初めてだ。Img_5787

 初日の法話会場は、屋上にヘリボートを備えた黒川紀章氏設計の門司レトロハイマート。  2日目は、その向いにある観光物産会館の2階。1階は、土産物屋Img_5761で、賑やかだ。目の前では、発祥の地といわれるバナナの叩き売りをしている。休憩時間に、同人の皆さんも購入されていた。

Img_5813 観光地のど真ん中で、法座が持たれるのが、なんとも不思議だ。開始前や昼休みに、皆さん、ブラブラ町を散策したり、買い物をされたりしている。中には、ジェット船Img_5829で対岸の下関まで行かれた方もある。それでも誰かが言っていたが、どこにいても、法座が始まれば、法座(華光)モードになるのも、また不思議。   

 Img_5837法座の終了後、有志で、街並みを散策する予定だと聞いていた。ところが、知らぬ間に皆さん帰られてしまって、残ったのはいつもの仏青の若手3名と、ぼくだけ。これは、前回の大分の時と同じImg_5812パターン。しかも、今回は、それぞれに事情も重なって、ひとり抜け、二人抜け、また抜けて、結局、みんな帰ってしまって、ぼくだけが残った。Img_5827新幹線が変更不可の切符だったので、仕方がない。時間まで重い荷物を抱えて、ブラブラすることにしたが、入場は4時30分まで終わるので、門司税関や美術館などを、Img_5819かなりバタバタと見て回った。  

 下関や巌流島にも行って見たいし、関門トンネルも歩いてみたいので、次回は、観光で訪れてみないなー。

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門司港での感動

Img_5842  初めて降り立った「門司港駅」。初のN家での九州支部法座だ。
 レトロとして人気のある観光地なので、ちょっとワクワクしながらも、ご本人とはご縁が浅いだけに、ちょっと心配もしつつ降り立っImg_5760た。
 「あの黒い高層マンションです」と迎えのSちゃんの案内に、「えー」と声がである。賑やかな観光地のド真ん中、ビル自体が31階が展望台になっていて、門司の観光名所なのである。

Img_5755 お部屋にお邪魔すると、全面ガラス張り室内からは、対岸の下関や巌流島、そして関門大橋が一望できる絶景である。

 「バランスの悪いものが屋上にありますね」と誰かがいったが、黒川紀章氏の建築だと聴くとImg_5766、それまたよく見えてくるから、いい加減なものである。

 Img_5802初開催にご本人も心配で、お友達やお寺の法友も8名も誘って、至れり尽くせりでのご接待くださる。ご主人も、ホテルとの送迎役などを喜んでやってくださる。夜は、夜景を眺めながらの懇親会、昼は、花見弁当に手作りのおかずやケーキと、ほんとうにあの手この手Img_5783でお世話くださる。
 
 しかしである。すばらしい眺めも、至れりつくせりのご接待も、かすむほどの皆さんとの尊い出会いがあった。これが一番、うれしい。

Img_5775 最初は、「お手伝いですから」とか、「何も知りませんから」と、ちょっとしり込みされていたようだが、初めての方があるとの情報で、「必ず、座ってください。難しい話Img_5782はしませんから」と、事前にご法話をに座ってもらうようにお願いしていた。

 皆さん、真剣にご聴聞くださる。1座だけImg_5797_2の予定が、3座とも座ってくださった。

 するとどうだろう。

「40年間、主人にも、皆さんに話したことのImg_5803ない思いです」と、涙ながらに語ってくださる方、「法話を聴いて、昨晩は一睡もできませんでした。私の人生はなんだったのだろうかと、生まれて初めて考えたことです」といわれる方、または、さまざまな苦悩人生を、正直に語ってくださる方や、「こんな人前でお話することは人生で初めてです。考えたことも、聴いたこともないお話をImg_5765_2_2体験させていただきました」とからだを震わせながら、興奮気味にお話くださる方。中には、お寺でご聴聞されていて、なんとかお子さんにご相続してもらいたいと切に願っておられる方もあった。話されたあと、お顔つきが変わられた方もあった。中には、「皆さん、なんとおっしゃっているのか」と「南無阿弥陀仏」の声を初めて聴いたという方もあって、「南無阿弥陀仏」と言っていますよ。阿弥陀さまという仏さまの呼び声ですよとお話すると、さっそく声に出してお念仏してくださる方もおられた。

 常連の同人の発言がかすむほど、自分を開いて打ち出してくださった皆さんのお声があまりにも尊く、深いところで出会えた気がしたのである。

 こういう形で、初めての方とも出会えるだけのものを、長年に渡りお育ていただたいことを、喜ばずにはおられなかった。

 ありがとうございました。

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一生造悪値弘誓

Img_5447_2  F家の十三回忌法要法座。

 毎年、ご法縁をもらい12年も続いていることになる。

 勤行のあと、ご法話。例の一燈園の逸話。こんな話なら、少々長くても、皆さん、真剣に聞いてくださる。でも、単なる道徳や感動的な話で終わらないで、どう後生に結びつけるのか。それには、自分のこととして聴けるかにかかってくる。

 縁あって、親鸞さまの『正信念仏偈』のお軸を飾って頂く。国宝の『ご本典』におさめられた親鸞聖人の真筆を、今の技術で転写されたもので、知り合いの表具屋さんに表装してもらった。

 「一生造悪値弘誓
  至安養界証妙果」

 「一生悪ヲ造レドモ 弘誓ニ値(もうあ)イヌレバ、
  安養界(あんにょうかい)ニ至リテ妙果ヲ証セシムトイエリ」

 「生涯、悪を造り続けるわれわれであっても、ひとたび阿弥陀さまの本願に出会い、信じる身となれば  命終わって、必ず安養のお浄土に生まれて、最高の仏の悟りを開くのである。」

  「もう少し詳しい意味は?」と尋ねてくださったので、説明をする。

 すると、「一生悪を造る」にひっかかり、「世の中には、環境のせいで仕方ない悪人もいるけれど、根っから悪人もいますよね」と。おかげでそこを手がかりに、善悪について考えていただいき、「私自身は、悪人ですか」と問う。「まあ、悪いとこもあるけれども…ね」と、私はやや善人なのである。確かに、世間の常識では、殺人罪や重大事件を起こす悪人が他にいて、私のことはないのだ。

 これまでの人生経験や善悪の基準が翻ることは容易ではないが、それでも善悪を超えた真宗のおみのりに触れていただくしかない。仏法を聴かせていただかなければ、「一生造悪」の極重悪人が、実は私のことであったと気付くことはなかったのだから。  

  4月は法事が続いたが、これで今年の予定の法事3件が、すべて終了。あとは、5月の永代経法要を終われば、年内に五条袈裟も付けることもないのかなー。

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出版に意欲

 お世話になっている出版社の社長さんと、久しぶりにお会いした。お互いの近況やら、取り留めない業界の話題、今後の仏教界への危惧など、あっちこっちの話題だが、それでもやはり刺激をいただく。  

 お互い、いろいろとたいへんな時期もあって、出版関係は滞っている。ぼくの方も、750回大遠忌法話集、正信偈講座、そして法話集に、親指のふしの英語版と、取り組む課題は山積みだ。  それでも、今回、前向けで意欲的なお話をいただいて、積極的な気持ちになった。

 まずは、5月の永代経に向けて、小冊子の作業が大詰め。小冊子より、法話集をという声もいただているが、まずはひとつひとつ仕事をこなすことで、その道も開けてくるだろう。

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神社のサクラ  

Img_5703_2 土曜日の日中は好天だっだが、夜から雨になり、日、月はグズツイタ天気となる。

 サクラも散り始めてきたが、それでも、まだ持っている。

 帰路、ちょうど雨が上がった。  昨晩、Rさんから、地元の神社に、ソImg_5717_2メイヨシノとシダレザクラがきれいで、隠Img_5726_2れた名所だと聞いたので、立ち寄ることにした。  

 お天気はあいにくだったが、確かに見事なサクラが3本立っている。  

 申し訳ないけれど、参詣にきたのではないので、神社の名前も知らなかったが、ちゃんと参拝する方もおられます。

 http://www.genbu.net/data/tajima/tatenui2_title.htm

 ちなみに、下の写真の右奥に念仏碑が映っています。
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長距離移動

 京都から北陸道を通って、金沢まで。

 久しぶりに北陸支部法座に顔を出す。皆さんの温かさが身に沁みた。ありがとうございました。

 法話拝聴の後、今度は、北陸道から舞鶴若狭自動車道を経由して、兵庫県豊岡まで、車を走らす。若狭から舞鶴までは、初めての道。ほとんどどころか、まったく車が走っていなくて快調に進む。好天だ。今日は、600㎞以上走ったが、沿道はサクラが満開で、気持ちよかった。今回は、750キロの長距離移動だったが、2/3は、連れ合いの運転だった。

 翌朝は、豊岡での四十九日法要。親族だけでなく、同人の方もお参りでかなりの人数。いつもの支部法座の会所なので、法話の時間もしっかりとったが、つとめて初めての方にも聞いてもらえるテーマを選んだが、反響があることは、肌で感じた。幼なじみの方が、涙を流しながら法話を聞いてくださっていたが、「これからご縁をいただきたいです」との声がうれしかった。  

 まだゲレンデには雪が残る奥神鍋まで移動して、会食。昨日の八鹿の居酒屋といい、このビィフッといい、田舎といったら悪いが、おもわぬところで若い人が経営する意欲的なお店にあたって、ご馳走に満足する。

 会食を少し早く抜けて、今度は法要を兼ねた支部法座。こちらも、初めての方、ほんとうに久しぶりの懐かしい方のお参りもあった。法話のあとには、一口ずつ声も聴くことができて、充実した法座となった。こちらも、次へのご縁が生まれたかもしれない。  

 夜の法座(座談会)はなくなったが、Rさんと3名で懇親会。  

 翌日も、月忌参りが続いたが、今回、法事をご縁として法座となったが、単なる仏事に終わらず、法話や座談も行え、反響があったことが、やはりうれしい。当たり前のことだが、せっかく法話も、無反応だったり、そのまま流れてしまうと、けっこう空しいものだ。逆に、皆さんの声が聞け、反響が届くと、こちらも力が入るし、やはり次べき意欲も湧いてくるものだ。

 お世話の皆さま、ありがとうございました。  

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祇園白川の夜桜

Img_5624 ちょっと寄り道したが、夜桜の続編。

 円山公園の夜桜を堪能し、けっこう歩いた。もう帰ろうと思っていたが、長女が、「祇園白川の夜桜も見たい」といった。円山公園からImg_5632は、清水寺に抜ける道もいいが、時間帯からみて、白川の方がいいだろう。

Img_5633_2 昨年と同じ所だが、コースを逆に進む。 ここも、夜10時も近いのに、また外国からの観光客でごったがえしている。昨年の人出の比ではないのだ。

 それでも、満開近くのサクラを堪能することができて、みんな満足。
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年忌法座

 亡くなった娘さんの五十回忌法要を、家庭法座として開いてくださる。

 一昨年の大会の時のご満座の全体会の時だったと思うが、ある先生が、「皆さんにも菩薩行ができます。どうか家庭法座を開いてください」と投げかけられた。

 翌朝、京都の同人から「娘に仏法を聞いてもらいたいので、ぜひ、家庭法座を開きたい」との電話がある。さっそくの反応がうれしい。もちろん、いきなりではハードルが高いので、若手の先生にお願いして、月忌参りのような形で、数回続けてもらうことにした。おかげで、いまでは、お子さんと一緒に日曜礼拝の常連になってくださるところまで、ご縁が生まれている。

 ほんとうは、50年までにはまだ数年ある。それでも、お母さん自身が、病気を抱えて、先の不安がある。亡くなった娘さんのお誕生日は、4月8日の花祭りの日。しかし、せっかくこの世に生を受けながら、わずか7日間で亡くなられた。「この子の妹なんてす」と仰る。あれ?と不審に思っていると、「双子で生まれて未熟児で、妹が亡くなったんです」と。

 一方は、これまでいのちを繋がれ、そして亡き人を縁として、仏縁を結ばれている。
 いのちの尊さ、不思議さを感じずにはおれなかった。
 

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円山公園の夜桜

Img_5535  朝、上桂の医者に行く。  

   金曜日には、まだ咲いていなかった桜が、週末の陽気に一気にImg_5542_2咲き出していて、びっくりした。

 快晴、しかも初夏のような陽気である。

Img_5544_2 明日からは天気は悪くなるとのことで、急きょ、夜桜見物にでることにした。  

Img_5543  去年もそぞろ歩きをした、祇Img_5578園八坂神社、円山公園、そして白川の桜を愛でるコース。

 平日だというのに、大勢の花見客。海外
からの観光客が半端ではない。中国やImg_5568_2タイなどのアジア系の団体客もあるが、白人系もさまざまな言語が飛び交って、Img_5562_2目立っていた。

 桜の下の茶店も、客で賑やかで、なかなかImg_5573順番が回ってこない。  

  やはり、家族ので、花(サクラ)派と、団子(酒)派といるが、桜の下で飲む酒はうまい。しかも、あったかくて夜Img_5570風が心地よい。
 満開は、金曜日くImg_5590らいかなという感じだが、それでも見事なサクラを堪能できた。  

  久しぶりに、坂本龍馬と中岡慎太郎の銅像も拝めたが、この辺りにImg_5614来ると、人ごみも一服。

 でも、料亭も外人だらけだ。子どもたちは、夜店を堪能している。

 八坂神社を抜けると、円山公園で、この枝垂れ桜が有名だ。正式名称は「一重白彼岸枝垂桜」。見事!Img_5594_2
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