善導さまとの対話
『往生礼讃』の講義も、もう終わる。これまでのぼくには、毛頭なかった視点で、勉強になった。残り1/4だけの参加だったのが、残念だ。 一番、印象に残った話がこれだ。
難しくなるが、『往生礼讃』の日中偈の第八偈と、その元になる『観経』を原文と書き下し文であげておく。
『往生礼讃』の日中偈の第八偈は、
「一一金縄界道上 宝楽宝楼千万億
諸天童子散香華 他方菩薩如雲集
無量無辺無能計 稽首弥陀恭敬立
風鈴樹響遍虚空 歎説三尊無有極」「一々の金縄は道の上に界ひて、宝楽・宝楼千万億あり。
もろもろの天童子香華を散じ、他方の菩薩雲のごとくに集まる。
無量無辺にしてよく計ることなし。弥陀を稽首して恭敬して立つ。
風鈴樹の響き虚空にあまねくして、三尊を歎説すること極まりあることなし」
とある。これは『観経』の第六宝楼観にあたる。ところで、実際の『観経』では、
「衆宝国土一一界上、有五百億宝楼閣、其楼閣中有無量諸天作天伎楽。
又有楽器懸処虚空、如天宝幢不鼓自鳴。
此衆音中、皆説念仏念法念比丘僧。
此想成已、名為粗見極楽世界宝樹宝地宝池。
是為総観想、名第六観。」
「衆宝国土の一々の界上に五百億の宝楼閣あり。その楼閣のうちに、無量の諸天ありて天の伎楽をなす。
また楽器ありて虚空に懸処し、天の宝幢のごとく。鼓たざるにおのづから鳴る。
この衆音のなかに、みな仏を念じ、法を念じ、比丘僧を念ずることを説く。
この想成じをはるを名づけて、ほぼ極楽世界の宝樹・宝地・宝池を見るとす。これを総観想とし、第六の観と名づく。」 となる。
『往生礼讃』を見ていても、なんら疑問はない。が、『観経』には、「三尊」(これは弥陀、観音、勢至の三尊)の言葉はなく、「皆説念仏念法念比丘僧」-つまり、仏・法・僧の三宝を褒めたたえていると説かれている。
では、何故、善導様は、「三宝」ではなく、「三尊」とされたのか。
「三宝」でも、「三尊」でも、仏を褒めたたえるという点では、意味は通る。誤写ではないとすると、これは本来は、やはり「三宝」とすべきところである。
実は、三「宝」は、仄声なので、前後が、「仄声 仄声 仄声」と音律のバランスが崩れてしまうのだが、三「尊」は、平声なので、「仄声 平声 仄声」と、音律の規則にのっとり、リズムが整うといのである。
しかも、この偈は、
一行目は、「浄土の荘厳」
二行目は、「浄土の天神のと菩薩」
三行目は、「浄土の天神のと菩薩」
四行目は、「浄土の荘厳」
と意味の上からも、また押韻の規則からも、乱れた配置となっていて、
本来の押韻に戻すと、
一行目、「浄土の荘厳」
四行目、「浄土の荘厳」
二行目、「浄土の天神のと菩薩」
三行目、「浄土の天神のと菩薩」
と置き換えると、意味の上からも通じていくというのである。
まあ、ぼくからみると、「三宝」でも「三尊」でも同じだと思えるし、また順番だって、「そうかな」と思う程度である。しかし、この先生は、意味だけでなく、声に出してお唱えするという本来の意味に返して、厳密にこだわることで、1300年の時空を超えて、善導さまと対話を楽しむことだできるという。「善導さん、ほんとうは「三宝」としたかったんでしょうが、泣く泣く「三尊」とされたのですね。その心を汲んだ訳をしてますよ」と。
正直、よく分からないが、なんかカッコいいなーと思った。
でも、よくよく考えたら、ぼくたちだって、南無阿弥陀仏を通じて、時空を超えて、お釈迦様とも、親鸞様やお祖師方とも、膝付き合わせた対話ができるんだものね。
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