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華光誌に、5月の永代経法要と、7月の広島・壮年の合同法座(IN宮島)のチラシが同封されている。
4月1日から、利用中のヤマト運輸のメール便の型式が変わるので、3月末までに発送したかった。年度末で印刷所は混み合っていたが、うまく間に合った。
急きょ、東京支部には、手渡しのために持参する。おかげで、用意した分が、全部配れた。重かったが、これは有り難いことだ。
春休みなので、子供たちも手伝ってくれた。もっとも、役に立つのは上の子だけ、下の子はしらぬまにいなくなって、なぜか、おやつの時だけ戻ってきた。
今回のお手伝いのIさんお手製のレモンケーキを食べる。
懐かしく、とてもやさしい味。
ところで、4月の真宗法座の集いは、案内状を作っていないが、盛況だ。初参加者も多い。〆切はまだだが、定員まで、あと2名になっている。法座の性格上、定員厳守するので、希望者は、すぐお申し込みを!
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さて、肝心の東京支部法座の中味であるが、法話は、2座が歎異抄の5・6章を講義的にお話し、その後6~7名のグループでの話し合い。
他には、最近、感銘をうけた一燈園の先生と、18歳の死ぬ間際の不良少年の真の出会いのエピーソドを、ぼくなりに味わうところでお伝えした。これが、皆さんに味わうところが多くて、夜の懇親会でも、それぞれの感じや味わいを語ってくださる。おかげで、散乱気味になる懇親会も、法義話や、信仰中の疑問点が中心に進んだ。 道徳を超えた深い話したが、廃立の厳しい話ではない分、それぞれのところでの味わいがさまざま出た。そのままストレートに取って感動される方もあるし、他にも、僕自身も味わえなかったような視点を聞かせていただいて、とても有り難かった。
最初は、躊躇していたが、高山や東京の皆さんの味わいを教えていただくと、もっと読み込んで、皆さんと分かち合いをさせていただくと、それだけ、いろいろなものがいただけると題材のようだ。
今回も、まだ20代の初参加者があったが、それぞれ、別のルートでおいでになった方だが、以前から浄土真宗の聞法をされていたわけではないのに、真宗カウンセリングでの出会いがあったり、またブログ等で注目くださいながら、今回の出会いとなった。ほんとうは、昼座だけのお試しだったようだが、結局、2日間、終了後の懇親会までお付き合いくださった。
この先の縁は分からない。が、それでも、いま、ここでの出会いを頂けたことが、とにかく尊かった。
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『往生礼讃』の講義も、もう終わる。これまでのぼくには、毛頭なかった視点で、勉強になった。残り1/4だけの参加だったのが、残念だ。 一番、印象に残った話がこれだ。
難しくなるが、『往生礼讃』の日中偈の第八偈と、その元になる『観経』を原文と書き下し文であげておく。
『往生礼讃』の日中偈の第八偈は、
「一一金縄界道上 宝楽宝楼千万億
諸天童子散香華 他方菩薩如雲集
無量無辺無能計 稽首弥陀恭敬立
風鈴樹響遍虚空 歎説三尊無有極」「一々の金縄は道の上に界ひて、宝楽・宝楼千万億あり。
もろもろの天童子香華を散じ、他方の菩薩雲のごとくに集まる。
無量無辺にしてよく計ることなし。弥陀を稽首して恭敬して立つ。
風鈴樹の響き虚空にあまねくして、三尊を歎説すること極まりあることなし」
とある。これは『観経』の第六宝楼観にあたる。ところで、実際の『観経』では、
「衆宝国土一一界上、有五百億宝楼閣、其楼閣中有無量諸天作天伎楽。
又有楽器懸処虚空、如天宝幢不鼓自鳴。
此衆音中、皆説念仏念法念比丘僧。
此想成已、名為粗見極楽世界宝樹宝地宝池。
是為総観想、名第六観。」
「衆宝国土の一々の界上に五百億の宝楼閣あり。その楼閣のうちに、無量の諸天ありて天の伎楽をなす。
また楽器ありて虚空に懸処し、天の宝幢のごとく。鼓たざるにおのづから鳴る。
この衆音のなかに、みな仏を念じ、法を念じ、比丘僧を念ずることを説く。
この想成じをはるを名づけて、ほぼ極楽世界の宝樹・宝地・宝池を見るとす。これを総観想とし、第六の観と名づく。」 となる。
『往生礼讃』を見ていても、なんら疑問はない。が、『観経』には、「三尊」(これは弥陀、観音、勢至の三尊)の言葉はなく、「皆説念仏念法念比丘僧」-つまり、仏・法・僧の三宝を褒めたたえていると説かれている。
では、何故、善導様は、「三宝」ではなく、「三尊」とされたのか。
「三宝」でも、「三尊」でも、仏を褒めたたえるという点では、意味は通る。誤写ではないとすると、これは本来は、やはり「三宝」とすべきところである。
実は、三「宝」は、仄声なので、前後が、「仄声 仄声 仄声」と音律のバランスが崩れてしまうのだが、三「尊」は、平声なので、「仄声 平声 仄声」と、音律の規則にのっとり、リズムが整うといのである。
しかも、この偈は、
一行目は、「浄土の荘厳」
二行目は、「浄土の天神のと菩薩」
三行目は、「浄土の天神のと菩薩」
四行目は、「浄土の荘厳」
と意味の上からも、また押韻の規則からも、乱れた配置となっていて、
本来の押韻に戻すと、
一行目、「浄土の荘厳」
四行目、「浄土の荘厳」
二行目、「浄土の天神のと菩薩」
三行目、「浄土の天神のと菩薩」
と置き換えると、意味の上からも通じていくというのである。
まあ、ぼくからみると、「三宝」でも「三尊」でも同じだと思えるし、また順番だって、「そうかな」と思う程度である。しかし、この先生は、意味だけでなく、声に出してお唱えするという本来の意味に返して、厳密にこだわることで、1300年の時空を超えて、善導さまと対話を楽しむことだできるという。「善導さん、ほんとうは「三宝」としたかったんでしょうが、泣く泣く「三尊」とされたのですね。その心を汲んだ訳をしてますよ」と。
正直、よく分からないが、なんかカッコいいなーと思った。
でも、よくよく考えたら、ぼくたちだって、南無阿弥陀仏を通じて、時空を超えて、お釈迦様とも、親鸞様やお祖師方とも、膝付き合わせた対話ができるんだものね。
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「娘が、いまシンガポールに住んでいるので、訪ねてきました。」という同人があったが、「輪読法座」が終わってから、みなみ会館で、生まれて初めてシンガポールの映画を見た。新人監督の評価は高かったが、退屈そうなので、パスいつもりでした。ところが、奇しくも、シンガポールの国父、リー・クアンユー元首相が、91歳で逝去が伝えられて、シンガポールの記事にけっこう触れて、興味が湧いてきた。
『イロイロ』~ぬくもりの記憶~は、監督の幼少期の実体験に基づいている。
特別な大事件が起こるわけでもないが、反抗期の少年と、フィリピン人家政婦の交流を中心とした、中華系(華僑)一家の小さな事件の物語である。
時代は1997年。それほど大昔ではない。が、ブラウン管のPCモニターに、大きなケイタイ、テレカでの電話など、わずか20年前ほどのことが、もうすっかり忘れている。
しっかりものの妻の尻にひかれた冴えない夫は、アジア通貨危機で、株で大損し、しかもリストラの憂き目にあう。共働き身重の妻との関係もうまくいっているように思えない。彼女は、問題ばかり起こす反抗期の一人息子に、手を焼いて、家庭と仕事で、心の休まるようすはない。
そこにフィリピンからの住みこみの家政婦がやってくる。彼女もまた、家庭の事情で、まだ1歳の子供、妹夫婦に預けている。シングルマザーらしくて、まとまったお金が必要な理由があるようだ。ますます反抗し、いじわるまでする子供だったが、何度かのぶつかりあいを通じて、孤独な二人が徐々に彼女に心を開いていく。
しかし、父親の経済事情は悪化し、母親のように息子と仲良くなった家政婦に、母親が嫉妬をし出すが、このあたりの微妙な関係が、なかなか面白かった。
でも、全般には物足りなさを感じたが、教育事情、住宅事情、そしてアジアの格差の問題。華僑式の葬儀や多民族国家であり、さまざまな民族、宗教などがある、等身大の国情が垣間見れるのも、こういう映画の楽しみ。
ちなみに、タイトルは、邦題で「イロイロあります」の「イロイロ」や、色とりどりの意味と思っていたが、フィリピン人家政婦の出身地「イロイロ島」から。
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講習会が終わったところで、その感想も分かち合う。
あの時に聞けなかった皆さんの声が聞けて、ぼくにはいい機会だった。
さて輪読内容は、昨年の継職法要のシンポジウム「浄土真宗の可能性」の交流会の前半で、人間中心のカウンセリングの核心、ついで、浄土真宗との出会い、さらに真宗とカウンセリングの交流、もしくは両者の違いなどについて、Y氏の豊かな経験で語られている。
ある意味、これも、現代において、世界への仏法(真宗)の拡がりのありさまであり、真宗の可能性を充分に語っているのだ。
昔は、カウンセリング嫌いを自称されていたMさんが、「法座は、私にとって最高のカウンセリング(を学ぶ場としても)の場です。こんな場所なのに、みんな恥をかきたくないと黙っていたら、勿体ないですよね」の一言に、驚かされる。
こちらが指導したり、動かしたりしていないのに、自然と感化されて成長されていかれるその姿をみて、ほんとうに法座は、生きた真宗カウンセリングの場だと実感。
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ぼくは、昔から中国映画が好きだ。
最近でも、昨年のジャ・ジャンクー監督の『罪の手ざわり』http://www.bitters.co.jp/tumi/に、こころ震えたし、今年は、とても高評価の『薄氷の殺人』http://www.thin-ice-murder.com/がよかった。新人監督ながら、斬新な映像美と、精細なこころの機微を扱ったサスペンスで、クオリナィーの高さに、すごく感心した。
中国も、新しい世代の監督がいい作品を作り出して、完全に世代交代だなーと思っていたが、中国映画の巨匠、チャン・イーモウの『妻への家路』(英語題=Coming Home)には、完全にやられた。北京オリンピックの開会式の演出もそうだし、最近は、ハリウッドのアクション大作などが多くて、ぼくとしてはいまひとつ感があったが、やはり厳しい現実の中に垣間見れる、暖かな人間味が零れ出る映画がいい。
ところで、外国映画を見ていると、その国、その国がトラウマになっている内乱や戦争、事件が題材になるが、中国映画の場合は、文革が大きなウェートを占めている。
『妻への家路』も、毛沢東の右派闘争から始まり、四人組の仕業として斬罪される文化大革命という中国の失われた20年間で、右派分子として糾弾された知識人たちのその後。生き残った家族の大きな傷と、それを凌駕する家族の絆が描かれる。これには、文革の時代に辛酸をなめた監督自身の実体験もこめられているので、時代背景、何気ないセリフやしぐさにもリアリティがある。
夫(父)が知識人の右派分子として糾弾され、地方の極貧地帯(西域の砂漠地帯で、非道な扱いをうけていることが、後の手紙で分かる)に連行され、数年間。まったく音信も、安否も不通状態。妻は、高校教師。調度品からも、明かに裕福な家庭だったことがわかる。一人娘は、優秀なバレリナー。しかし、父親が危険分子ということで、その子もまた、実力以下の冷たい評価に甘んじなければならない。
その父親が命懸けで、逃げ出して、妻に会うとするシーンから始まるが、両者の緊迫したやりとりから、引き込まれる。
ところが、幼き日に父親と分かれ、文革の中で洗脳教育を受けてきた彼女には、危険分子としての父親の存在が許せず、実の父親を密告するという形で顕れて、父親はまた逮捕されて、音信不通になってしまう。しかも妻と夫を切り裂いただけでなく、母と娘の間にも亀裂を生んでしまう。
3年後、文革は終焉を迎え、夫は名誉を回復して、待望の帰宅を果たす。
ところが、その間、心因性記憶喪失(その原因をいろいろと匂わしながらも、はっきりしたところを明確にしないところもいい)になってしまった妻には、目の前にいる男が、待ち焦がれた自分の夫だと分からなくなっているのである。
その間に、娘と和解を果たした彼は、なんとか妻の記憶を呼び戻そうと、さまざまに工夫を始まる。ああ、こんな形で記憶が蘇るのか思わせてピアノの演奏場面。そのままでも充分に感動的な再会をシーンなのに(ハリウッド映画なら、ここを山場にするかもしれないが)陳腐な結末としないで、そこからも、夫を焦がれ続ける妻と、その前で苦悩する夫の演技がすばらしい。
監督の初代ミューズ、コン・リーが、心因性記憶喪失になってまで、夫を待ち続ける妻を圧倒的に演じ、旦那役のチェン・ダオミンも、負けずに劣らず渋い演技だ。両名人に挟まれた娘役のチャン・ホゥイウエンが、初々しく、キリーッとした顔つきで人民バレエを没頭し、また複雑に葛藤する姿がうまかった。
端々にでる豊かな生活ぶりや、博識ぶり。さらに、同じ運命の友人の妻から、彼が自殺したという一言だけでも、どれだけ過酷な生活だったのか。実際にみせなくても、想像させるのがいい。20年間、妻への手紙を、暗闇のなかで、雑紙に綴ることしかつながりがなかったけれども、結局、一通も出せないまま手許に残った手紙の山。男を支えたのは、家族・妻との再会の一念であり、また妻を支えたのも、夫への思いだけだったのだろう。にもかかわらず、歳月は、目の前の夫を、夫の手紙を読み聞かせてくれる親切な他人としか、妻に映らないのだ。その手紙に涙する妻は、「5日に戻る」という彼からの伝言だけを信じて、毎月5日、雨の日も、雪の日も、夫の名前を大書したプラカードを持って、駅に立ち、夫を待ち続けるのである。
そして、あのラストの名場面である。ここがグーンと感動的だった。
雪の朝、自分を帰りを待ち焦がれる妻と共に、自分の名前を書いたプラカードを持って(自分の帰りを待つ)夫。二人を少し距離を置いて見守る娘。
いろいろ思いが去来し、涙が自然に溢れでた。
久しぶりに、チャン・イーモウにやられました。
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昨年に続き、『歎異抄』の2回目である。 前回の続きで、第1~10章の聖語編の5章から10章の6章をいただいく。
華光誌と法座の合間で、時間的には少し厳しかったが、いろいろと勉強するのは楽しい。何種類かの講義本を読み、レジュメを作製する。あまり専門的になってもいけないが、もちろんいい加減でも困るので、その兼ね合いを考えてそれなりのレジュメは作った。
ぼくの中でも、たびたび法話する、1~4章に比べると、後半は、9章以外、法話の教案に使ったことがないので、ぼくも新鮮に学ばせてもらった。やはり、自分でレジュメを作り、皆さんに聞いていただくことが、一番の勉強になる。普段ならば、同じ解説書でも1度さらっと読んだら、それで終わる。これまでも悟朗先生の聖典講座や、仏青でも、4度(例会で2度、合宿で2度)も輪読しているが、やはり自分の課題になると、取り組みの姿勢も、読み方も変わる。少しでも分からない点や用語も、念入りに調べ直したりするのも、担当させていただいたおかげである。
参加者は少なめだったが、新潟、島根、埼玉、京都と、初参加の方も多くて、懇親会も楽しかった。ここでも、ご縁の不思議さを感じさせられる。第6章ではないが、「つくべき縁あればともなひ、はなれる縁あればはなるる」のである。
さて、内容だが、一方的な講義だけではなく、皆さんに声を出してもらって味読し、1章ごとに、最後に5~6名のグループで、話し合い・分かち合うという型式をとった。少人数であること、また、テーマがあると発言しやすいので、どのグループ活発に話し合っておらされた。各章ごとに、30分程度の時間だったが、そのうち、信仰座談会のような雰囲気になっていくグループもあって、面白かった。
各章については、機会があれば触れてもいいが、全体を通して、特に4章~10章が、「起行訓」と呼ばれ、安心のはたらきとしての行(念仏)について、具体的に言及されていること。それが「自力を離れて、他力に帰せよ」という終始一貫した姿勢で貫かれ、その底に終始流れているのが、晩年の聖人の「自然法爾」境地の一端に触れさせていただいたようで、そのあたりをじっくとお聞かせに預かって、とても有り難かった気がする。 またボチボチ書いていきます。
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朝から強い雨。駐車場になる校庭は、ぬかるみ、大きな水たまりもできている。
今の式は、「螢の光」も、「仰げば尊し」もなかった。在校生の歌も、卒業生の歌も、馴染みのないものだった。担任の先生方も、派手な紋付きや袴で競うようで、このあたりも、ずいぶん様変わりしたように思える。
それでも、在校生と、卒業生が、コール&レスポンス方式で、送辞~合唱、答辞~合唱と、流れるように進んでいって、涙ながらの答辞に、回りの保護者も涙ぐんでいた。
これでこの中学校に来ることはもうない。
いや、もしかすると、子供の卒業式というものに、出席する最後になるのかもと思うと、ちょっとシンミリ。
たっぷり2時間、式らしいいい式だったが、子供に声をかけられないまま、列車の時間が迫ってきたので、心を残しながら、高山へ。
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3月22日(土)~23日(日)は、第39回の講習会だ。
高札に掲示する「講習会」の告知を書いた。
もちろん、2日間で、すべてができる内容ではない。今回は、前回の続きからで、5章から10章の聖語編の後半である。
単なる一方的な講義でも、質疑を交えるだけでなく、文章そのものを輪読し、みんなで味わっていきたいと思っている。
前回の復習もするので、今回が初めての方も、ぜひどうぞ。実際、初参加者がかなりおられる。初めてお会いする方もあるので、楽しみだ。
案内チラシを送付したのは、同人の方はもちろんだが、歎異抄や親鸞聖人の関心のある有縁の方に、出席いただきたいからだ。ぜひ、皆さんも活用いただきたい。
ただ、前回、同様、地域によって、出席にかなりバラツキがあるので、これらか広く呼びかけていきたい。
締切ましたが、講習にはまだ参加できます。
皆様、ご参加をお待ちしております。詳しくは、以下を参照ください。
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今月は、急ぎで華光誌の編集作業に専念。Rちゃんの都合で、いつもより、1週間早く完成して、明日には、印刷所渡しと運びとなった。
この後も、歎異抄の講習会の準備があるし、高山や東京法座が続くが、とにかく2週間、休んでいたブログも、また再会します。
まずは、1日の聖典講座から、逆戻りしてアップしますので、ご注意ください。
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天気が怪しかったが、午後から、鶴見緑地の「咲くやこの花館」に出かけることにした。
http://www.sakuyakonohana.com/ そう遠くないのに、「花博」にはぼくは無縁で、ここに来るのは初めてだ。
EXPO'90「国際花と緑の博覧会」なので、もう27年になる。かなり昔のことだ。
施設は老朽化して、この展望台でも休止中。もっとも冷たい雨が、本格的に降ってきて、眺望は望めない天気。
それなりに不思議な花や、美しい花が、顔みたい花や、足のような木など、いろとりどり。
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今年から、信心編に入り、まず「三心一心」から始まっている。
今回は、その2回目で、親鸞聖人の「三一問答」(信巻)に入っていた。
本願(第十八願)に誓われた「三心(至心・信楽・欲生我国)」の基本構造を分析して、「他力の一心」であることを明かにすることが、今回の中心目標であることを確認した。
先ず、「字訓釋」で、「三心」の各文字の意味から、三心の内容を解釈されて、三心全てが、「疑蓋無雑」であり、信楽の「一心」、すなわち真実信心一つ、すなわち、三心即一心であることを解明される。
ついで、「法義釋」に入って、「機無・円成・廻施」の論理で、三心即一心であることを示されるわけである。 特に、ここは、最近でも法話で述べたことろで、皆さん馴染みがあると思っていた。
しかし、皆さん「難しい」の連発で、はっきり分かったことは、チンプンカンプンということだった。
でも、それも当たり前のこと。 阿弥陀様の誓願(十八願の三心)を、如来であるお釈迦様が「経」にお説きになり、それを菩薩である天親樣が「論」でご解釈されたのである。如来様、菩薩様ならいざ知らず。そんな深い意味を、泥凡夫の惚けた頭で、おいそれと分かるわけがない。まさに、こちらは「機無」なのである。だからこそ、親鸞様が、如来様と菩薩様のお心を、「釈」してくださって、初めて凡夫にも届いて来るのだ。その上で、そこをかみ砕き、かみ砕き、先達の言葉としてお示しくださってきたものを、いま、ここでお聞かせに預かっている。
次回は、4月1日(水)7時30分~9時50分。
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聖典講座の前に、朝イチ9時からスタートの映画を観る。
イーサン・ホーク主演作の『プリデスティネーション』は、結構、面白かった。
短編SF『輪廻の蛇』を原作にした、ミステリアスな、時空を超えったタイム・パラドックスものだ。「卵が先か、親鳥が先か」の問いに、「交尾が先である」という意味慎な答えがあった。この映画の本質で、どこが一番先なのかは、まさに、メビウスの輪、リインカーネーションである。
それでも、映画自体は、タネが分かりやすくなっているので、なぜ?と疑問をもたなければ、なるほどと、面白い。ありえないけれど、うまくできてます。
さて、急いで帰ろうと、エレベーターを待っていたら、奥のドアから、スタッフと一緒に、ドラえもんが歩いて出てきた。
おお。ここは、どこでもドアかー。
でも、 大人が入るには、かなり小さい着ぐるみだけど、どうなってるんでしょうね。7日から始まる映画の宣伝で、このあと子供たちとの撮影会があって、思わず、1枚 。
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さて、『重誓偈』の段落分けと、各行の大意を窺ったので、簡単に触れておこう。
まず、1~3行が、(1)「三誓を建てられる」段である。
1行目の「我建超世願~」は、四十八願全体をうけ、どの仏にもない、超世の願であることを誓われたもの[満願]。
2行目の「我於無量劫~」は、第十八願意で、苦悩の人々を救うために、自ら名号の功徳を施す仏になることを誓われたもの[大施]。
3行目目の「我至成佛道~」は、第十七願意 その名を十方世界のすみずみまで聞こえわたさせよう誓われたもの。[名聞] このように、三度を重ねてお誓いになっているが、1行目が、自利なら、2、3行目は、利他であって、自利利他が円満に成就した仏になろうというお誓いである。
続く、4~9行目が、(2)「仏徳を誓われる」段である。
4行目の「離欲深正念~」が、三誓を受けて、そのための行を成し遂げよう、という決意表明である。分け方によって、ここを(1)段に修める見方もある。
次に、光明の徳を誓われるのが、「神力演大光~天光隠不現」まで、5、6、7行である。すなわち、闇を破り、すべての人を育て、真の救いを与える光明の働きを身につけることを願われているが、十二光のいくつかが誓われている。
そして、光明の徳に続いて、8行目の「爲衆開法藏~」は、名号の徳である。呼び声を全世界の人びとに施そう、という名号の功徳を誓われる。
以上の光明と名号の功徳をそなえるための行を完成しよう、という結びの決意表明ガ、9行目の「供養一切佛~」である。
そして、最後に(3)は「証明を請われる」段(現瑞証誠)で、
10行目の「如佛無礙智~」は、師仏讃嘆で,、 匠の世自在王仏を讃え、ひとしい智慧が身につくことを願い求められる。
11行目の「斯願若剋果 ~」は、 四十八願の真実性を証明するために、師仏に奇瑞・現瑞をあらわすことを求められて、重誓偈の結びとされる。 と結ばれるが、偈を述べ終わるやいなや、大地は六種に震動し、天は妙華を雨(ふら)、微妙な音楽が流れ、そしてどこからともなく、「決定して必ず無上正覚を成るべし」の声が響いてくるというのである。南無阿弥陀仏
次回は、都合で4月25日の土曜日となります。1時30分から5時。
発願につづいて、いよいよご修行の段に入っていきます。
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聖典講座も、四十八願が終わって、『重誓偈』に入った。
日頃、日常勤行で馴染みが深いが、一句、一字ずつを意識しながら、意味を感じて勤行はされていないので、皆さん、感銘を受けてきいてくださったと思う。ただ、日常勤行の聖典にも載っていて、馴染みがあるので、「聖典を見てください」「テキスト(現代語訳)を見てください」、「次は、プリントの○ページです」と、あっちこっちをご覧いただくので、けっこうたいへんだったという声を、いただいた。これは、ぼくも要反省。もう少し、ゆっくりと皆さんのペースで進まないといけない。
さて、内容であるが、『大経』にある3つある偈文の一つで、「法蔵菩薩の発願」の中でも、四十八願を誓われた後に、その重要性、真実性を強調するために、重ねて誓われた偈文で、四十八願の要点を重ねて三つの誓いを立てられるので、「三誓偈」とも言われている大切な詩歌だ。
ところで、「偈」とは、梵語の(gatha) で、「伽陀」のことで、頌とも訳される。詩句をもって、仏をほめ、又は法義を述べること。必ず、四句をもって一行(一偈)とするが、「重誓偈」は、五言で四十四句十一行の詩句となる。
そして、「重誓」とは、親鸞様が、正信偈で、「重誓名聲聞十方」と示されているのに由来するし、存覚上人の『六要鈔』に、「重誓偈」の名称がだされている。
特に、最初の3行(12句)が重要で、
「四十八願」が全て「設我得仏~不取正覚」とあるのに対応して、
「重誓偈」では、 「我… ~誓不成正覚」と、三度も重ねられている。
では、何故、重ねて誓われねばならなかったのか。たとえば、柏原祐義師によると、
(1)四十八願が、超世の大願、諸仏不共の誓願であることを重ねて示し、衆生の疑いを晴らす。
(2)四十八願では明示されなかった、他力回向の義を明示するため。たとえば、「不爲大施主」や「爲衆開法藏 廣施功徳寳」など
(3)最後に、現瑞証誠を請い、疑い深い衆生のために、さらなる証明とされた。
というように、法蔵様が、念には念を入れてご配慮をされている証なのである。(続く)
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