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何を見つめているのか

 葬儀のために、豊岡にむかう。

 彼女のご実家とは、浅からぬご因縁がある。ぼくが高校生の時から、毎年、お宿をし、法座を開いてくださる。夏休みに4~5日続けて泊めていただいたこともある。父の代からいうと、60年以上も施主として、会所をお願いしているのだ。

 そのCさんは、30代のころ、急ぐように、父から法名も受けられていた。そして、4、5年前の日高法座の後、飲む機会があった。その時、彼女から、「かりもんちゃん、私のお葬式をお願いします」と頼まれた。ここの3姉妹は、年下だが、ぼくのことを、いまだに「…ちゃん」付けで呼んでくれる幼なじみだ。 その時の彼女は、酔っていたが、目は真剣だった。無常は誰にも分からないが、ご縁があれば駆けつける約束をした。同時に、体の葬式だけでなく、こころの葬式が本職なので、お参りにきてほしいともお願いした。

 
 しかし、その後、彼女の容態が悪くなり、何年もの闘病は、最後まで意識はしっかりし、かなり苦しいかったようだ。その分、ご主人やご家族に看取られながら、静かに息を引き取られたようだ。

 闘病の末、見る影もなくやせ細った彼女の遺骸の眼は、まるで水晶玉のように鋭く見開いていた。

 通夜の後、Rさんが言った。

 「彼女の眼は何を見ているのか。死者の眼は何も見ていない。ただ眺めているこちらの眼に、これが自分の姿と写っているかどうかだ」と。

 南無阿弥陀仏。

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