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広島支部法座~南無阿弥陀仏にかえす

   このところ、広島市だけでなく、島根組や福山組などのお参りが多く、盛会な支部法座が続き有り難い。今日も、初めての方も含めて、大勢御参りがあった。ただ30名を超えると、自由な発言が難しくなる。発言機会だけでなく、円座になっただけでも、人数に圧倒され気後れしてしまう。

 そこを勇気を出して破って発言くだった皆さんの声が尊かった。

 質疑でも、単なる知的な質問ではなく、聞きごころだったり、求める姿勢だったり、日頃の生活や聞法に直結する悩みから出たものだからだ。
 またその応えに対して、涙で返してくださる方、念仏として返してくださる方と、それぞれが尊かった。

 結局、聴聞にしても、座談会での発言にしても、特別なよそ行きの心では、意味はない。でも、日頃の私の心に任せていては、喜びも念仏も相続しないのではないかいう疑問がでる。それで、そんなわが心を問題にし、その心をなんとかましなもの、法にかなった自分になっていこうとしたり、どうしたらそう成れるのかと悩んだり、強信者と比べて落込み、初心者をみては自惚れていくのであろう。

 
 法話も「機無・円成・廻施」だったが、阿弥陀様は、私に真実の心も清浄の心も、微塵も持ち合わせないと見定めてくださったのである。そんな当てにならないわが心。いくらあてにし、まことにしようとしても無駄なのである。虚仮は虚仮、地獄行きは地獄行きとお聞かせいただく。そして自らの自惚れや方向違いをご指摘いただくのが座談会である。

 私の頼りにならない心を当てにして、そこに真実のお念仏を取り込むのではない。その反対である。私の上ではなく、如来様の仏地にしっかりと樹てさせていただくのである。そして、ゴチャゴチャ出てくるわが思いは、それにいちいち構い、とらわれないで、如来様の思議できないほどの難思の法の海に、常に流していくのである。如来様の広大無辺の法海は、どんな汚染水にも穢されることはないだ。
 心を弘誓の仏地に樹て、念を難思の法海に流すのである。つまり、虚仮不実のわが心にかえるのではなく、常にお念仏(如来様のお心)に返させていただくのだ。

 そんなことを申し上げていたら、質問された方が、すぐ「いまお念仏させていただきます。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏…」と、大声の南無阿弥陀仏された。すると、そのお念仏がまた連鎖して、お念仏の場となった。ひとりひとりは泥凡夫の集まりだが、それが南無阿弥陀仏の響き一つで、たちまちに南無阿弥陀仏で荘厳され、整えられていくのである。まさに、不思議なお働きを喜ばせていただいた。南無阿弥陀仏

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