1月の輪読法座~名で接したまふ~
1月の輪読法座。
巻頭言「今、われ、幸いに」と、聖教のこころ「名で接したまふ」を味わいながら読む。
報恩講が終わったばかりで、報恩講での法話や座談会のことが、結構、話題になった。特に、ぼくの法話で、名号について、親鸞様が、「名」が、まだ仏になられる前の因位の時のお名前、すなわち法蔵菩薩様という名と、「號」は、仏となられた果上の時のお名前、すなわち阿弥陀如来様というふうに、因果に分けて用いておられるご文に触れたことを、新鮮に聞いてくださる方が多かった。
それにも少し関連する点もあるが、本号の聖教のこころは、『行巻』引用された元照律師のご文である。
「いはんやわが弥陀は名をもつて物(衆生のこと)を接したまふ。ここをもつて耳に聞き、口に誦するに、無辺の聖徳、識心(衆生の心)に攬入(入り満ちること)す。永く仏種となりて頓に億劫の重罪を除き、無上菩提を獲証す。まことに知んぬ、少善根にあらず、これ多功徳なり。」(元照律師-『行巻』)
阿弥陀如来は、「名」-南無阿弥陀仏の名号となって、「物」=私どもを済度されるというのである。そして、「名」なればこそ、この耳で聞くことができ、この口で称えることができるのである。そして、耳で聞き、口で称えるけとひとつで、無漸無愧で、まことが微塵もないこの身にも、限りない慈悲智慧による尊い功徳が飛び込んでくださり、満ち満ちてくださるというだ。しかもそれが成仏の因となり、億の劫を重ねるほどの計り知れない罪罪がたちまちに除かれて、最上の悟りを獲得するというのである。それは、決して小さな善根ではなく、無量の福徳がある広大な功徳なのだというのは、阿弥陀経のおこころでもある。
この私を救わんがために、こころもおよばず、言葉も絶えた真如の世界から、真実そのものの如来様が、「名乗り」を上げてくださったのである。それが、今、私に届く、「南無阿弥陀仏」である。にもかかわらず、私は、「南無阿弥陀仏ぐらい、お念仏ぐらい」と、粗末な、小さなものにしてはいないだろうか。
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