『嗤う分身』
『嗤(わら)う分身』 は、ロシアの文豪、ドストエフスキーの初期の作品(原題は『分身(二重人格)』というそうだ)を原作だ。
原作は読んだことはないが、この映画はとても面白くて、異色の快作といっていいかもしれない。
映像、画質、照明もセットや美術(どこか、アキ・カウリスマキ風でもありましたが)、そして音楽にいたるまで、つまり映画のムード、タッチが、不条理劇の、無国籍で、リアリティがなく、不安定な雰囲気でうまく統一されているのである。しかも、どの国でもなく、過去のようでもあり近未来でもあり、また現実なのか、夢なのか、それとも心の心象なのかもあやふやでありながら、私の身に起こってもおかしなくない現実、つまり自分のこととして迫ってくるのである。
音楽も、英国の映画でありながら、日本の坂本九の「上を向いて歩こう」や、ブルーコメッツの「ブルーシャトウ」など、無国籍でありながら、哀愁のあるムード醸しだしている。がっちり、日本語の、しかも60年代のものが流れるだけでも、不思議な感覚になるものだ。
『ソーシャル・ネットワーク』の主人公として、饒舌にまくし立てていたジェシー・アイゼンバーグが、まったく正反対の性格違う主人公とその分身(ドッペルゲンガー)の1人2役を、独自の味でうまく演じ分けている。ヒロイン役のミア・ワシコウスカも、清楚でありながら、怪しく謎をもった女性を好演している。
一方は、内省的で、要領が悪く、まったく存在感がない。同僚の大好きな女の子を覗き観する(ほとんどストーカー)ことしかてきない冴えないぼくの前に、抜群に仕事が出来、女にもモテて、いつも人気者の、まったく同じ容姿の男が現れることで、自分の分身に翻弄されて、居場所を失い、追い詰められていく姿が描かれている。
要は、人生は自分の意志でコントロール出来ている錯覚して生きているが、ほんとうはすごく不条理な連続なのかもしれないし、一旦、歯車が狂うと、破綻、破滅への加速度的に進むものだということだろう。第一、「ぼくって何?」であって、病的の程度はあっても、誰もが、二重どころか、多重人格者といってもいいのである。
ラストの結末も、謎の尾を引かせながらも、まるでメビウスの輪のような仕掛けがあって、唸ってしまいました。結局、××××(ネタバレがあるので)ってことかなー。
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