恩師の薫陶
夜半からの雪は午後には溶けていたが、まだ強風と共に、雪が舞う寒い一日。
9月のご往生された、「信楽峻麿先生の薫陶を再確認し、友と偲ぶ会」に顔を出す。
当初は欠席の返事をした。が、今日になって、予定をキャンセルして、やはり勤行だけでもと思い、大宮学舎へ。
正直にいうならば、学生時代、先生の教えは、理解できなかった。いや、むしろ反発していた部分もあった。ひとつは、日頃からお育て頂いてきた華光の教えとは異なるからで、先生が重視する点が、ぼくには「捨てもの」であるように感じた時期もあったからだ。それでは、廃立が立たないと、生意気にも学生時代の聞法の集いで、くってかかったことがある。若気の至りである。 その時、父から「法蔵菩薩のご修行をされている菩薩様方なのだ」と諭されたが、その言葉は、まったく腑に落ちなかったことを覚えている。
その意味では、伝統的な教学の中で、それでもある意味で、先生のいう一元論をめざし、求道して、廻心転入していく華光で育ったぼくは、異質の教え子であったのかもしれない。
この年になっても、恩師の教学理解は、ほとんど出来ていないのかもしれない。
しかしながら、学問や知識を超えた体験の世界で、深く影響を受けているのは確かだ。 強いていうならば、それは、ぼくの生き方においてである。もちろん、ぼくの生き方は、お粗末なチャランポランなもので、けっして、成長や深化があるわけではない。お念仏を前にすれば、恥ずかしいしかないのだ。お粗末なぼくなりにお念仏の人生を歩みプロセスだが、それが師の教えに通底する歩みであるという気がしてならない。
それは、故西光義敞先生からいただいた真宗カウンセリングの学びでもまた同様で、間違いなく、今のぼくの歩みに、大きな力を与えてくれているのである。
この時代、いやいまにしか出会えなったよき師を持ったことは、なんという稀なる幸せかとだろうか。
父のショートや通院の迎えの都合で、偲ぶ会は欠席したので、ここで少し薫陶を再確認。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
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