大阪支部報恩講~機無・円成・回施~
今月の大阪支部法座は、支部報恩講である。
持ち回りの家庭法座だったころには、赤飯なども振舞われていたこともあった。
みんなで、声高らかに正信念仏偈をお勤めした。
法話は、華光大会で、盛り沢山すぎで消化不良気味だったので、「機無・円成・回施」
を、『信巻』の三一問答の至心釈に絞って窺った。
願成就文の「諸有衆生・聞其名号・信心歓喜…」を受けられた親鸞様は、信巻の下巻に
「聞というは、衆生、仏願の生起本末を聞きて、疑心あることなし。これを聞というなり。信心というは、すなはち本願力回向の信心なり」
と示してくださった。願成就文を受けてられるので、わざわざ「衆生」と名指しで指名くださるのは、ここだけである。そして、われわれ衆生が聴くのは、「仏願の生起本末」であり、具体的には、「機無・円成・回施」の仕組みを聞くことにほからない。
それは、まず「機無」とは、私には、果てしもない過去から今日、今時に至るまで、真実心も、清浄心も、そのかけらすら微塵もないということである。それをみそなわし、「哀れなるかな~」と立ち上がってくださったのが、すべての始まりである。だから、機無の真実を聴くことから、仏法は始まる。単に、自分を知ることではない。如来様の御目に映った私の真実の姿を教えいただくのである。不思議なことに、自分のことは自分が一番よく知っているように錯覚しているが、自分の外見も含めて、正しい鏡に写さねば知ることはできない。だから、如来様の教えが大切になってくるのである。
そして、それがために、私には微塵もなかった、真実心と清浄心の塊となって、最高の功徳そのものの南無阿弥陀仏を円かにご成就くださるのである。しかも、それをどのような形で、機無のものに届けるかといったときに、如来様、真実様のほうから、一方的な回向、つまり回施してくださるというのである。
それがために如来様は、南無阿弥陀仏という「名」となって、私を摂取しようというのである。名だからこそ、私が聴くことができる。名だからこそ、私が称えることができるのである。
だからこそ、「分からない、分からない」と歎く人は、わが心で「分かろう」とするのではなく、分かるまで聞き抜けばいいのである。これが単なる理論やお話ではない。この回向に、私が出会うことが、浄土真宗なのだといっていいのである。
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