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西光寺報恩講(2)~選擇本願~

 私は、目が覚めた瞬間から、日々、刻々、選択(せんたく)の連続で生きている。
 もちろん、それが習慣となり、身についたことは、意識もなく行っているのだが、実は、それもまた選択の結果である。

 そして、何かを選び取るということは、同時に何かを捨てることでもある。意識していなくても、私は、日夜、何かを拾い、何かを捨てることの連続を生きているのである。
 ちょうど人生とは出会いであるが、出会あるところに必ず別れがあるようなものだ。

 では、阿弥陀様が、五劫て思惟され、選擇(せんじゃく)摂取してくださった時には、何を選び、何を捨ててくださったのか。
 お経には、諸仏の二百一十億の仏国土、人天の善悪粗妙を選び取り、善を取り悪を捨て、妙を取り粗を捨ててくださったとある。
 しかし、その背後にあるお心となるとどうだろうか。

 
 阿弥陀様は、自らの正覚を捨てられた。
 それどころか自らのいのちも捨ててくださった。
 そして、南無阿弥陀仏という浄土の行を選び取り、私に与えてくださったのである。

 だからこそ、如来様の大慈悲心が、南無阿弥陀仏!となって、この私めがけて飛び込んでくださるのだ。南無阿弥陀仏のいのちの叫びが聞こえてきたなら、私もお応え申し上げるしかない。ただ「南無阿弥陀仏」と。

 ご満座のご法話を終えて、皆さんの領解出言を聞く。
 
 毎回、毎回、ぼくの法座を追っかけされている方が、体を震わせて、涙を流して、小声で「南無阿弥陀仏々々」姿が目に入ったので、声をかける。

「はい。私のためにいのちを捨てて呼んでくださっている南無阿弥陀仏。私も、南無阿弥陀仏とお応えさせていただきます。南無阿弥陀仏!! 南無阿弥陀仏!!……」

 彼の言葉は、口先ではない。まったく彼と離れず、ぴったり寄り添った言葉となって、響いてくる。
 いや、人間の言葉が、阿弥陀様の言葉となって、ぼくの胸にも響いてきた。南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

 とにかくその姿が掛け値なしに尊かった。

 「目に見えぬ 慈悲が 言葉にあらわれて
 なむあみだぶつと 声で知らせる」(才市同行)

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