四十八願のこころ(6)「光明無量・寿命無量」
会館の「聖典講座」も、今月は、十二願からの十七願や十八願を含む核心に入ってきたが、寺院会報の連載もちょうど十二願からである。
たとひわれ仏を得たらんに、光明よく限量ありて、下、百千億那由他の諸仏の国を照らさざるに至らば、正覚を取らじ。 (第十二願・光明無量の願)
たとひわれ仏を得たらんに、寿命よく限量ありて、下、百千億那由他劫に至らば、正覚を取らじ。 (第十三願・寿命無量の願)
「阿弥陀」とは、インドの言葉を中国の音に写したもので、もともとの言葉には、光明無量(光がきわまりがない)と、寿命無量(命にきわまりがない)という二つを現しています。
つまり、あらゆる人々(衆生)を救うために、自ら、このような仏となりたいと誓われた法蔵様は、自らの身を「光明無量」、「寿命無量」という仏身で、荘厳(しょうごん)されました。だから、阿弥陀仏とは、無量光仏であり、無量寿仏なのです。
ではなぜ、光明無量の無量光仏に成らねばならなかったのでしょうか。またなぜ、寿命無量の無量寿仏に成らねばならなかったのでしょうか。
それは、あらゆる時代、どんなの国の、どんな人々も、必ず救ってみせるぞという深い深い大悲心が、その根底に流れているからです。そのためには、まず自らが智慧の塊である無量光仏となって、十方微塵と言われる全宇宙をくまなく照らし、どんな片隅の衆生であっても、必ず救ってみせよう。同時に、自らが慈悲の塊である無量寿仏となって、過去・現在・未来の三世にわたる、どんな濁りの時代の衆生であっても、必ず救ってみせよう、という十二、十三の誓願を起こされたのです。それで、親鸞様は、十二、十三願こそ、大悲の本だと讃えておられます。
しかもです。本願文だけでは分かりませんが、成就文などを窺うと、阿弥陀様おひとりだけでなく、そのお光に摂取された私達もまた、無量寿・無量光の阿弥陀様と、同体の悟りを開かせていただくというのです。二百一十億という諸仏方には、とうてい及びもしない超世の願いなのです。
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