ご示談
ご縁あって、ご示談のお申し出をお受けする。
老苦、病苦、死苦-自らの無常が現実に迫っていて、ご本人は、真剣そのものだ。
仏法は、おとぎ話でも、話の中のことでもない。今の現実が、後生へと綿々と続く私の一大事である。だから、話の上だけならわかることも、わが身の問題となると、難の中の中、これに過ぎたる難はない世界である。しかも私が、どれだけ真剣で、必死であっても、わが心、わが聞き心を頼って、本願を握りにかかる、つまりは自力の世界にいる限りは、絶対に出会うとのない。自力を翻し、他力に帰すことが、廻心なのである。そして、その他力の世界に立たせてもらえさえれば、すべて阿弥陀様からの回向されるいただきもの。ただのただで、これほど安い教えはないである。
もろろん、話で聞いてるのだけなら、任せたつまり、分かった気になるかもしれない。が、実際は、他人事ではなくわが身の無常が迫る現実になると、自力・他力の変わり目のみに力が入ってしまう。しかし、そこを追いかけるのだが、追いかけても、追いかけても、その方向に出会いはないのだ。廃立は大切だ。だが、その変わり目だけを追いかけても無駄なことだ。わが身の変化が第一の問題ではなく、そう変わらせるお力(誓願不思議の願力)が一番手である。だから、阿弥陀さまのお心を、ただお聞かせていただくだけなのである。それだけしかないのだ。
お互い真剣であっても、人間のチッポケな計らいなど役に立つものではない。第一、互いに目先の変化を見つめ合うだけならば、あまりにも空しいではないか。根底に流れる大悲のお心にふれていくのである。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
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