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聖典講座~四十八願(1)総説~

 四十八願成就して 正覚の阿弥陀となりたもう
 たのみをかけしひとはみな 
 往生かならずさだまりぬ   (帖外和讚)

 今月から、「法蔵菩薩の発願」のうち「四十八願」に入った。師匠である世自在王仏から、二百一十億の諸仏の国の有りさまを詳しく聴取された法蔵菩薩が、その長所を選りすぐって、五劫もの長い間、思いをめぐらされ、諸仏のなしえなかった大誓願が明らかになる。「一切の人々に真の喜びを与えよ」と、師に励ませれた法蔵菩薩が、四十八誓願を表明される一段である。まさしく浄土真宗の源は、この誓願から始まるといっていいのである。

 ところで、菩薩様とは「上求菩提・下教衆生」の御方であるが、どの菩薩様方も、菩薩の共通した誓願を誓われている。いわゆる菩薩の総願といわれるもので、すべての菩薩が共通して起こす四弘誓願がそれである。法蔵様も、讃仏偈の「願我作仏  斎聖法王~一切恐懼 為作大安」の中で、(成・断・学・度)を明かにされている。

 それに対して、別願とは、それぞれの菩薩の独特な願いで、阿弥陀仏では、因位(つまり法蔵菩薩) の時に起こされた四十八願こそが、弥陀さまの別願なのである。

 特に、四十八願は、すべて、
「設我得仏(たとえ、われ仏を得たらんに)=願い(その願が成就しない限り)
 不取正覚(正覚を取らじ)」 =誓い(仏に成らないと誓われた)
の形式を取っている。単なる願いではなく、世自在王仏に代表される諸仏方の前で、自らの正覚をかけた誓いなのである。

 まさしく、「あらゆる時代のすべての人々をもれなく救い尽くす」という大事業を誓われたのものであり、究極、第十八願におさまるものであるが、世に超えたすぐれた大悲の心からおこされた誓願であるから、「超世の悲願」とも言うべき誓願である。

 この四十八願は、地獄〔瞋恚=いかり憎しみ〕・餓鬼〔貪欲=果てしない欲望〕・畜生〔愚痴=無知な姿〕の三悪道の世界がないという、無三悪趣の願から出発して、次の第二願では、未来にわたっても三悪道にかえらないということが誓われている。つまり法蔵菩薩は、このような生々しい苦悩の現実に対する深い悲嘆と、限りない大悲心をもって、悪人凡夫の我々を目当てとした誓願をおこされ、その心こそ、四十八願すべての根底に流れるお心であると言える。同時に、その浄土は、阿弥陀仏一人の浄土ではなく、私が往生させてもらう世界なのであり、仏のためでなく、悪人凡夫の私のために、第一願・第二願が誓われたのだと言える。

「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」(歎異抄後序)と、親鸞様がいわれたのはまさしくここであり、私の中で、これが単なる法蔵菩薩の物語で終わってしまうのかどうかも、この汲めども尽きぬ計りしれない、如来様のお心を聞信するかにかかっているのである。

 ところで、この四十八願は、阿弥陀如来が法蔵菩薩という因位の時に起こされたものなので、因願と称される。そして、大誓願を起し、兆載永劫のご修行の果てに、阿弥陀如来という仏果を得られた。その因願の結果が成就されたので、成就と称する。実は、四十八願はその願文だけでなく、成就文と照応する時、初めて深意を窺うことができる。この成就文をお説きくださるのが、釈尊の仏説である。

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