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久しぶりの日曜礼拝

  久しぶりに日曜礼拝にお参りする。

  子供が少ないのがとても気にかかる。こちらも、案内やお誘いも含めて、もっともっと工夫が必要だ。それでも、先生役の若い人もチラホラあって、トータルでは、そこそこにお参りある。  

  法話は、Y先生。「今年もあと、1月半。今年も、いろいろなことがありましたね」と、今年を振り返りられた。ああ、もうそんな季節になったのだなーと、しみじみ。この後も、何が起こるかわからないが、これまでも、広島での土砂災害や、御嶽山の噴火などの自然災害が日本でもあり、お隣の韓国では旅客船セウォル号の遭難事故など事故や事件があいついだ。その中で、旅客船セウォル号の遭難事故を材料にしたご法話をいただく。

 無常(死)ということ、誰もが自分かわいいの欲で、責任とらない自分中心ということ。そして、犠牲となった高校生の、最後の通信記録から、まったく我が身の危機を楽観視し、ほんとうのことがほんとうと分からない、無明ということを、具体的な例でお話くださった。  

  迷っているとは、自分のことが、自分で分からないのだ。先のことも何一つ分からない。無常とも分からない。ほんとうのことは何もわからない。だから、ほんとうのことがわかった、悟った御方、目覚めた御方が、そんな私の行き先(後生)を、大悲のお心で心配されて、「危ないぞ、危ないぞ」と、声を枯らして叫び続けてくださるのである。

 でも、その声が分からないから、これまで迷い続きてきたのであるし、その呼び声を聞くことがないのから、また迷い続けていくのであろう。

  座談は欠席して、華光誌と、大会の準備。こちらも1週間を切って、しばらくたいへん。

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