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今年最後?の広島支部法座

  広島駅の新幹線のコンコース、土産物屋がリュニーアルされていた。改札口に向かうと、これも場所が変わっていた。通路も、回りのお店やすっかり新しく、そして明るく生まれ変わっていた。先月とは大違いだ。開通は一昨日のことらしく、どのお店もお祝いの花で飾られていた。これだけでも、新鮮な気分になった。

 司会のNさんから、「今年、最後のかんもん先生の支部法座です」とご紹介された。意識していなかったが、そういえば、カレダーも、残り2枚となって、年末の仕事の段取りも相談をする季節になっている。ぼくにとっては最後だが、12月は、法話大会におこしくださった広島の本派の布教師をお招きされている。こちらも楽しみなことだ。

 さて、法話は、「信心正因・称名報恩」から、一般の信心、まかせるということと、浄土真宗の信心、おまかせすることの違いと言う点からお話した。
 たとえば、この世のなかでも、飛行機に乗れば、航空会社やパイロットを信頼して、いのちを預ける。病気で手術するとなると、医者を信頼する。手術台に乗ったら、もうまな板の鯉。ジタバタしないで、私のいのちを、「先生、お願いします」と、おまかせする以外には術はない。では世間のおまかせすると、真宗の他力にまかせるのは、同じなのか、違うのかを問った。もちろん、世間のそれは、どこまでも自分の総合的な判断で、看板や肩書を信頼し、最終的にはや一か八かの賭けに似たおまかせであるから、「必ず仏にしてみせる」という他力回向とは、まったく異なるものである。しかしである。もう少しその違いを皆さんに尋ねてしてみると、案外、分かっているようで、改めて言葉にするのは難しいようだった。
 でも、こんな不思議はないではないか。目にも見えず、科学的真実とは違い、おとぎ話のような弥陀の本願だけが真実だと頷くとができ、その弥陀をたのむことのみが、私が仏に成る唯一の道であるという他力回向の信心を頂く身とならせてもらったのである。そこから、称名報恩の「報恩」や「恩徳」の意味をお話したのだが、これもまた不思議にも、恩知らず、報謝のすべも持たない無慚無愧の身でありながら、功徳が十方に満ちるがゆえに、私の口がでる「南無阿弥陀仏」が、そのまま報恩謝徳のお念仏となる不思議に遇わせてもらっているのだた。
 すべては、私の側には微塵も真実はない。かけらも私にはまことはないのであって、すべて阿弥陀様から回向された功徳なのである。自力を捨て、他力に帰入したものだけが、味わえる不思議があるのだ。

 無慚無愧のこの身にて
 まことのこころはなけれども
 弥陀の回向の御名なれば
 功徳は十方にみちたまふ

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