久しぶりの東海支部法座~いのちは大切だ、は恐ろし
久しぶりの東海支部法座。名古屋の金山の会場は、初めてだ。
翌日からの法座の都合で、日曜日ではなく、土曜日の法座となった。
参加者は、少なめだったが、初めてお会いする方もあった。少しずつ、顔ぶれが変わってきているように思える。
例の『いのちの大切さ』に関する意識調査」をもとにしたご法話。
今日の「いのちは大切だ!」という至上命令的な価値観の押しつけと、それに何の疑問も持たず、現実は、そこから乖離している問題点を聞いていただいた。
いのちを大切などするこはできない私がいるではないか。第一、誰のいのちが大切なのか。私は、私のいのちに執着して、他のいのちを奪って生きいるのである。自分も、人も、他の生き物のいのちも、大切にできていないのに、スロガーンだけ叫べば、それかかなっているかのように錯覚する現実がある。しかし、逆に「いのちを尊重する」の美名のもとに、私の罪悪も、無常も、美化されて、「いのち」を浅い表面的なところでしかとられていないのではないか。
しかし、お釈迦様は、この身は、無常で、不浄なものだと断言されている。にもかかわらず、今日の仏教教団、浄土真宗や浄土宗教であろうが、禅宗や日蓮宗であろうが、現在の風潮に迎合するかのように、「いのちの尊厳」を訴えてやまない。まるで、それが教義の中心課題ような過剰な表現で語られている。この身も、このいのちも、不浄なもであり、偽りのものであり、そしておそろしいものであるという不都合な真実は、うわべだけの教えによって葬りさられている。しかし、何をするか分からない、おそろしい身をもち、いのちを持っているのが、私なのだ。だから、無明であり、迷いの身なのである。たとえ、いのちを長らえたとしても、真実に目覚めることがないのなら、また迷いを続けていかねばならない。だからこそ、お釈迦様は、迷いのいのちを離れて、悟りのいのちに目覚める道をしめしてくださったのである。迷いのいのちとは、おそろしく、厭うべき、迷いのそのものなのである。
ぼくが出会わせていただいた南無阿弥陀仏は、今日の毒(有害ではあるが)にも、薬にもならない寝ぼけた教えに、真実の一撃をくらわせるに十分な重みがあった。そんなおろそしい迷いのいのちを、丸々そのまま引き受けてやまないという、大きな願いから起こっているのである。どれほどのおろそしい逆謗の死骸を修めとっても、それに決して穢されることがないものである。一身に責任をとってくださるというのである。「責任とは、力である」という言葉に出会った。すべてを引き受けるだけの責任があってこそ、本願力という恐ろしいほどの力が働くである。南無阿弥陀仏に出会うとは、ある意味、こんなおそろしい世界に出会うことなのだ。ほんとうの意味で、すべてのいのちを大切にできるのは、自らの仏のいのちを我々に投げ出された、南無阿弥陀仏様だけなのである。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏
| 固定リンク