教行寺報恩講
ご縁があって、先月に引き続き、教行寺にお招きいただく。初めての報恩講だ。
本派と大派では、ご正忌報恩講の日(本派は1月16日の新暦、大派は11月28日)は違うし、正信偈や和讃の節もかなり違う。とくに、最後の和讃や念仏のユレには、ついていけない。しかし、節は違っても、お正信偈が勤まり、御伝鈔が拝読されるのには、違いはない。第一、同じ親鸞様のお法り、南無阿弥陀仏のお心という肝心の中味には、なんら違いはないのである。よく考えたら(よく考えなてくも)阿弥陀様が、それどころか親鸞様が、本願寺を建てられたのでも、東西に分けられたわけでもないのである。皆さんで、「南無阿弥陀仏」と申させていただく。もし、その時、お念仏の声がないのなら、それは、宗派云々ではなく、浄土真宗ではないのだ。
報恩講ということで、阿弥陀様、親鸞様のご恩徳をいただく。法座が終われば、当たり前のように恩徳讃を唱和するが、そのお心は深く尊い。
では、如来大悲の恩徳とは何か。単なる「恩」ではなく、「恩徳」というところを味わう。まだ「恩」の言葉はなんとなく分かる。さて「徳」となるとどうか。「徳がある」とか「不徳のきわみ」など日常で使用しながらも、案外、その意味を分かりやすく説明しろと問われたら、皆さんお困りになっている。実はよく分かっていないのに、どうして、それを実践することができるだろうか。
もちろん、如来様の大悲のご恩徳や、その弥陀の本願をご教示くだされた善知識の恩徳も、なんとなく有り難いと思っていても、実際には具体的に、どれだけ、身にかけて聞かせてもらっているのだろうか。ただ法座の度に、習慣としておあげているだけなら、あまりにも勿体ない。分かっていないものを、実践することはできない。その汲めどもつきないご恩徳の深さをお聞かせに預かるが、ご聴聞である。教えていただくから、聞くことが出来る。聴くことが出来るから、知ることができる。恩を知る、知恩があってこそ、(もともとのインドでの恩の意味である)感恩が生まれ、そして報恩へとつながるのである。
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