泉佐野の寺院法座~本気のお示し
10月は、大阪泉佐野の本派の寺院布教にお招き頂く。ご縁をいただいて、もう何年になるだろう。
親鸞聖人の報恩講である。15日が、お逮夜、16日が、ご命日のお勤めだ。
当たり前のことだが、法話は、参詣の皆さんの反応や反響をみながらお話している。特に、寺院布教の場合は、必ずしも、聴聞の焦点があたっている方ばかりではない。義理や役割で、渋々の御参り方もあるからだ。
最初、用意していた教案で話し始めたが、どうも反応が鈍い。
こんな時は、自分のところに届いてきた南無阿弥陀仏のお心を、そのまま聞いていただくのが一番いいのだが、それを自分の言葉として使った方が、皆さんに伝わっていくように思えた。それは、僕自身の個別な体験ではあるが、決して、特殊な話ではない、誰にも伝わる普遍的な内容が含まれていると思うからだ。なぜなら、人間に生を受けた以上、生老病死の苦や、愛別離苦や怨憎会苦といった四苦・八苦に苛まれて、避けることができないからだ。
しかし、そのことをきっかけにしながらも、その今生の悩み、苦しみが、後生の問題へと転じていくのか、いかないのかが、宿縁というのではないか。いくら、悩みが深く、強くても、お念仏を伝えてくださる方との出会いなければ、仏法聴聞へところへとこころが依ることは、決してなかっただろう。ご法は、聞いても、聞かなくてもいい。好き好きで、どちらでもいいというような今生の話ではなかったのだ。
僕自身にも、法に向き合う姿勢が変化した出来事が、何度かある。その都度、その都度が、尊いご縁であった。でも、その底には、先にお念仏(仏様)に出会い、真剣にぼくにそのお念仏を伝えてくださった、知識があり、お同行様がおられたのだ。その先達が共に聞法された集い、つまりサンガの中で、ぼくは仏法に出会い、そこで諄々とお育てをいただき、目覚めをさせていただいたのである。話すうちに、そのことを強く味わわせてもらった。
そうなのである。ぼくは、「後生に一大事があるぞ! 念仏のみぞまことの一つ、いま、聞いてくれ!」と、本気になって教えを伝えてくださった善き師がおられたのである。いつも、真剣にご法を伝えてくださり、真剣にご法を語り合う同行の集いがあったのだ。ぼくに、お念仏を教えてくださったお心の根底には、阿弥陀様のお心に触れらた本気の覚悟があったのだ。
その深い深いお心のおかげで、ぼくも、いま、お念仏を喜ぶ身となったのである。ならば、どんな場面であっても、手抜きして誤魔化すわけにはいかない。
どこまで、皆さんのこころに届いたかは分からないが、少なくても、自分の喜びには偽ることなく、ご法をお伝えさせてもらった。南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏。
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