広島支部法座~当たり前は有難い
8月末から、S先生、M先生、今回の法座で、3週続いての支部法座となった広島。法座続き、しかも土曜日ということで、お参り方を心配していたら、お久しぶりの方、新しくご縁のできた方、それに本派のご住職や奈良からのお参りもあって、会場が一杯となる盛況ぶりである。
今回は、なるべく法語を使わず、身近な、分かりきっているテーマ。
「朝起きて、皆さんはどんなことをされますか?」と尋ねた。
「トイレ(小)に行く」
「顔を洗う」
「お茶を沸かす」
「お仏壇にお参りして、仏華やお仏飯を供える」
「着替える」(布団をあげる・身支度をする)
「コーヒーを飲む」
「朝御飯を作る」
「朝食を食べる」
「朝食を片づける」
「歯磨きをする」
「トイレ(大)にも行く」などに加えて、
「シャワーをし、ヒゲを剃る」という方もある。
他にも、「新聞を読む」とか「テレビを付ける」・「メールをチェックする」、「窓を開けて換気する」、「布団の中で体操をする」などとがある。実は、箇条書きにしたものには、表の言葉には現れないが、その裏で絶対に必要なものがある。
あるところで、「仏様ですか」と答えたありが~たい方もおられたが、そうではない。子供さんに尋ねると、即答されるが、大人の方は、すこし間があって、
「水」
というお答えがでる。着替えることが洗濯と結びつけば、トイレも、食事の準備も、片づけも、何かを飲むのも、洗面も、すべて「水」がなければ、1日は、何も始まらないのである。
では、どれだけ、そのことを意識して生きているのかという、あまりに「当たり前」になっていて、毎朝、水が出たことに感謝する人はないだろう。今、昔のように、川から水を汲むとか、井戸から水を汲むということをしている人はいない。みんな、水道水で済んでしまう。しかもちょっと前までは、蛇口をひねっていたが、今は、指1本で押すだけで、水だけでなく、お湯もでる。風呂も、トイレも指1本ですんでしまうのだ。いや、トイレにいたっては、センサーで、便座を立っただけで、自動的に洗浄されることもある。
ほんとうに便利になったことで、ますます有り難いことが身にしみればいいのだが、実際はその逆で、便利になればなるほど、私の手間が省ければ省けるほど、そのものの「有り難さ」から遠ざかっていくのである。
しかし少し立ち止まって考えたなら、当たり前のことはなにもなく、ほんとうは有り難いことなのだという点を確認して、もっとも当たり前になっている「いのち」について、当たり前に「大切」だと決めつけている正論的な固定観念を破っていくお話を申し上げた。有り難いとか、大切とかいっていも、すごく当たり前のとこで、上辺のところで、きれいごとで、決めつけてはいないか。ほんとうにそのもの「いのち」を見ているのかどうか、改めて問いを発してみた。
皆さんのご感想や想いは、またそれぞれあったけどなー。
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