萩の教行寺
例年、この時期の秋の永代経法座にお邪魔しているが、今年は連続だ。5月に代表を継職した記念にと、2度もご招待いただいたのだ。
庭に萩が咲いている。ところが、雨空続きで、春に咲いたシャクナゲも狂い咲きしていると、ご住職が教えてくださった。確かに、関西は30年に1度の異常気象の夏だった。
参詣の方が多い。
朝座が50名ほどだったが、昼座には、80名以上集まってくださって、本堂は一杯。代務を勤められる、大和の清九郎同行のゆかりのお寺からも、大勢お参りくださる。これも、ご住職や坊守様、副住職と、お寺の皆さんが、案内や声かけをしてくださった熱意の賜物である。
熱心にお勧めくださったり、続けてお招きいただくと、こちらも身が引き締まる。日頃の華光でのご法話とは違った意味での、それなりの覚悟もいる。
たとえば、分かりやすい例話をこころがけるとか、なるべく小難しい話を避けるとかはもちろんだが、そんな小手先の話ではない。
結局、ぼく自身、というより、ぼく自身が喜んでいるご法を、わが身を開いて聞いていただくしかないと思う。
普通、お説教は、仏徳讃嘆の場であり、お聖教のお心をお取り次ぎの場であって、けっして、個人的な体験告白ではない。自己勝手な心理体験だけでは、仏法にはならないのだ。しかし、単なる覚え、学んで理解しただけの教義の受け渡しだけで、ほんとうに参詣者に届くのだろうか。少なくても、ぼくは、ぼく自身がほんとうに喜ばせていただいているお法りをお伝えしたいと思っている。自分が有り難くないこと、ぼく自身が信じられないことを、いくら巧みな話術があったり、上手い譬喩があったとしても、絶対に伝わらないのが、お法りではないか。
これは、きっと聞き手にしても同じだ。もし単に人間一般のことして漠然と聞いているのなら、いつまでも霞の彼方にお慈悲はモヤモチしたままだ。十方衆生にかけられた願いは、けっして大様ではなく、私ひとりにかけられた願いであることを抜いては、そのお心に触れることはない。
だから、人間と聞くのではなく、「私」のところで罪悪も、無常も、お慈悲もお聞かせに預かっていくか、いかないかで、意味はまったく違ってくるのだ。
そんなことを最初の例話に出しながら、ぼく自身がお念仏を喜べるようになるまでの入り口をお伝えした。
最後に、ご住職か、大学の集中講義という話がでた。
来月の報恩講も、またお招きいただいて、ご縁をいただくことになった。もうひとつ踏み込んで、ぼくが、生きたお念仏に出遇わせていただき、お念仏について阿弥陀様の大悲のお心を喜ばせていただくことになった身の幸せをお聞きいただこうと思う。
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