大収穫の念仏と黙想と、語らいの集い
聞法旅行の中止が決まり、急に代替法座を開催した。
念仏と黙想と、語らいの集いだ。
急な変更で、参加者は少ないだろうと覚悟していたが、当日の飛び込みも含めて、予想以上の参加者がある。車座になると道場が一杯になるほどの盛況ぶりに、驚いた。
以前より、温めていた構想で、原始教団の法座の原点に帰り、温かい雰囲気の中で、お念仏によって厳しく自己内省できるような法座を目指した。
が、ぼく自身も、初めての試みで、どのようになるかは分からない。
最初に、プリントを配り、注意事項や説明を行った。
今回のテーマのひとつは、当たり前になっていることを、当たり前としないで、丁寧に、しっかりと行ってみるこことである。そのひとつが、勤行だ。日常勤行も、法話や座短の付け足しのようになっている。丁寧にすることで、みんなの声が揃い、心をひとつになっていくことだと思ったからだ。
もちろん、浄土真宗の称名念仏は、名号の活動相であって、衆生の側からは、称える功徳や利益を期待するようなものではない。ただ゛無碍光如来の名義を聞き、本願招喚の勅命を聞信するのである。同時に、相続の姿として、このいのちが尽きるまで、報恩謝徳からの信後の称名行があるということをおさえた。また、念仏のあとの黙想はあくまでも、静かな沈黙の時間をもつのであって、瞑想などの行ではないということを、充分に説明を行ってから、共に、仏徳讃嘆のお念仏を称えさせてもらった。
今回は実践が主である。やってみないと分からない。
ひとりで称える称名とは違う。みんなが輪になりながら、共に、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と声を合わせる、まさに百重千重の囲繞された諸仏のお念仏が響きあってくるかのようだ。同時に、わが心から、さまざまな思いが立ち上がってくる。有り難いものもあれば、散乱もする。怒りや欲の感情も出でくる。まったく無関係な心もおこる。しかし、そのさまざまな虚仮不実の心をとおして、ますますもって虚仮不実の、末通ることのない、わが機が明かになってくるばかりだ。そして、それはすべて真実の、名号法の働きにほかならない。お念仏は、他人ではなく、私の虚仮不実の姿を明かにして、私の殼を破るのだ。それだけではない。そんなバラパラなものを、念仏ひとつに溶け合わせる大きな働きがあることを、身をもって教えられたのだ。
その後も黙想(沈黙の時間)も、貴重で、贅沢な時間だった。
また、そして、誰も強制することもないのに、皆さんが、わか身を開いて発言くださった思いを、有り難くお気かに預かった。まさに、狙い以上に、信、未信を問わず、共に自分をうち出し、喜びや味わいを語り合えた。それほど、皆さんの中で、さまざまな体験が起こり、味わいがなされてきたのであって、どの発言も、まるで法話や法語を聞いているかのようで、有り難かった。
集いの最期に、法然聖人の『一枚起請文』を頂いた。
「念仏を信ぜん人は、たとひ一代の法をよくよく学すとも、一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の無智のともがらにおなじくして、智者のふるまいをせずして、ただ一向に念仏すべし」
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
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