生きるとは出会いである
『カール・ロジャーズ』の月例輪読会。今月は、『我と汝』で有名な、哲学者マルティン・ブーバーなどの、カール・ロジャーズへの臨床実践に対する批判部分を読む。
ブーバーは、「生きるとは出会いであり、救済は、個を讃えることの中にあるのでもなければ、集団を讃えることの中にあるのでもない。それは関係性という開かれた対話の中にある」という命題を提示しているという。
ロジャーズにとっては、もっとも親近感のある格好の相手のように思える。ところが、ロジャーズが、カウンセリングの最中に、「我と汝の出会い」が可能になる瞬間があるんだというのに対して、ブーバーは、カウンセラーとクライエントという役割がある以上、両者の対等ではありえないのだという治療関係のところでの指摘で批判していて、せっかくの対話がかみ合わなかったという。
つまり、ブーバーは、一つは、「治療的な関係における力関係の土台」について疑問なをなげかけ、さらに、「真の相互性」にしっかりと根づいていない個人の生成の過程について深刻な疑念を表明していると指摘される。そして、ロジャーズへの臨床実践への批判の多くは、どちからの原因にあると、その具体例が挙げられていく。
ぼくには、それらの批判は、案外、的を得たものにも思えた。それだからこそ、逆に、ロジャーズの治療の核心が、批判を通して明かになるようにも思えて、面白かった。
おかげで、久しぶりに、「我と汝の出会い」という言葉を噛みしめている。特に、「生きるとは出会い」というのところ、しびれるな~。
で、ほんとうにぼくは、人間として出会っているのだろうか。いろいろな場面を振り返りながら、さまざまな味わいをさせてもらった。同時に、阿弥陀様とはどこで、どう出会わせてもらったのかも、深く味わわせていただいている。法話が一つ出来上がったな。
ところで、今では、マルティン・ブーバーとカール・ロジャーズとの対談は、『ブーバー-ロジャーズ-対話』として、詳細な註釈と解説が入った新版が日本語訳として出ている。「真のコミニケーションとは何か」とオビのキャッチにある。普通、この手の対談は読み物として編集がほどこされるが、これはミニカンの逐語録のように、「あー」「えー、えー」(沈黙10秒)などと、うなづきや言いよどみ、相槌や沈黙も含めた完全な逐語録で、下段には、不明な訳語にも詳細な註釈がつき、これまでの版の違いまで詳細に示されていて、本文よりも下段の註釈の方が詳しくて、かつ勉強になる。お互いの出会いから対談の中での、変化やプロセスを知るという点で、これだけの詳細さも意味はあって、興味を引かれる。
ただし、正直、専門的すぎるというか、あまりにも細かすぎ、繁雑すぎて、読む気になれないという難点がある。個人的にば実際に手にとって、読む気になるようなら、購入されればと思いますね。
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