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司会者研修会(2)~質問の根に応える~

 最後の模擬座談。突然、ロールプレイ(役割演技)で関わる方が出てきた。
 戸惑いながら、しばらく場にまかせていくと、そこから派生した「枝葉」の部分にどんどん広がっていく。「お聖教にはこうある」とか、または「その答えはこうです」と正解を言うも人も出てくるし、また派生した別の質問もでてくる。ある意味、普段の法座とかわらない。こうして、話題が広がることは必要なことだ。いつもいつも、焦点(フォカース)がきっちりあたり過ぎていては、窮屈になる。その意味では、話題が広がることで、座談に潤いも生まれる。

 しかし、それだけでは、疑問解決にもならないことが大半だ。なぜなら、ただ単に知的な正解が欲しいのなら、ここで質問をしなくても、ネットで検索すれば、正解を知ることができるからだ。それが、わざわざここで尋ねにくるということは、正解だけでは満足できない、何か気になるからこそ、生きた人に会って、教科書の正解にプラスアルワァーの答えを探してきているからだ。

 だから、何か質問がでたら、すぐに正解を答えるのではく、質問した人の「根」の部分に注目する聞き方が大切になってくる。結局、グループや対人関係で、何を聴くのか。その人の質問の言葉ではなく、その言葉を通しで、その人の感情や気持ちを聞き、その人の中で動いている言葉にならない体験を聞き、そしてその人自身を聞いていくのである。

 今回は、模擬法座である。司会者の困惑が伝ってきたので、ぼくなにり動くことにした。ある意味、ひとつ技法を出したのだ。技法といっても、テクニックや方法ではない。ぼく自身が、この場でありのままの自分となって、自己開示したのである。自己開示の基本は、「あなたは~○○だ」ではなく、「私は~今、××なんです」という私メッセージを使うことと。自分の中に起っている体験に、出来る限り引き寄せて、正確に表現することが大切だ。それで、「これは講師としてではなく、ここに座る一参加者のかりもんとして発言します」と断った上で、「いま、ドキドキというのか、ちょっと戸惑って、どう関わっていけばいいのか困っています」と、自分自身の感情を開くことから話を始めた。自己開示には、事実の開示もあれば、感情の開示もある。

 というのは、ロールプレイ自体は、けっして悪いことではないが、それもあくまでも、いま、ここでの、私のところで動くのであって、あまり演技が強くなると、どこの誰に関わっていくのかが、分からなくなるからだ。あくまでも、「いま、ここでの、私と、あなた」が関わっていくのであって、話題に出てきた「彼」にかかわるのでも、演じている「彼」にかかわるのでもない。なぜなら、「彼」は、この場に居ない人なのである。目の前に居ない人のことは放っておいていい。ただ居ない人でも、その人べき思いを語れば、必ず、いまここにいる人の感情は動くのである。そこを聞いていくのである。

 ぼくが自分を開き、それを演じている(きっとそこに、その人の何か気がかりや問題があるから話題に出された)人の、枝葉よりも、根の部分に焦点(フォーカス)をあてる聞き方を示しいいった。すると、グーンとその人自身が演技から、自分自身に焦点があたり、予想外の気付きがおこり、シフトしていく瞬間を、目の当たりにすることができた。一番、驚いておられたのは、その方自身である。でも、これか聞くということのひとつの姿であるということを、ある意味で、体験できた貴重な時間となった。
 もっとも、これがどういう意味があるのかを、あの場面できちり理解されていたのは、一人か、二人か。その意味でも、いい模擬法座となって、充実した研修会となったのはないた。
 

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