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 3月の寒中仏の子ども大会の閉会式でのことだ。

 各学年別の分級座談会の感想や報告があったが、中学生グループは、子どもとして最後の参加となる中学三年生のIちゃんと、中学二年の我が子が代表となった。

 その日の朝、「仏智疑う罪深し、この心おもい知るならば、悔ゆるこころを旨として、仏智の不思議を信ずべし」のご和讃でご法話があった。  
 それを受けて、彼女が言った。尊い仏様のお話を聴かせていただきながら、ほんとうに信じられるのかというか、疑いの心がでてきたり、分級座談会でも、大切なお話だと真剣にきいていたの、次のゲームやイベントがあると、もう仏様の話などどこかへ行ってしまう。心の底から信じられないという気持ちを、分級座談会で吐露したという。  

 すると、先生から、「そんなものも好きだと願ってくださっているのが阿弥陀様。すべて見抜き、分かってくださっている。だから、ほんとうかなという心を持ったままでもいいので、阿弥陀様の願いを聞いていてほしい」といった意味の話あを頂き、とても勿体ない気持ちになって、涙ぐみながら話してくれた。

 ほんとうにそうだなと、わが子の涙が尊く思えた。

 浄土真宗の聞は「疑心有ること無し」である。煩悩はお許しだが、疑いは嫌われる。捨てていかねばならない。だから、「疑わず信じています」と、みんな信じるになりたいと頑張っている。しかし、自分でそう頑張り、信じていることこそが、実は自力である。阿弥陀様の本願は、自力ではとうてい信じきるとのできない広大な願いだ。自力と他力では、まったく次元が違いすぎるのである。疑いを晴らしてから、聴くのでも、信じるのでもない。その心にかまわない、その心にとらわれないで、阿弥陀様の願いを聞き抜いていくしかないのである。疑いが晴れるのは、阿弥陀様の真実の光にあうからだ。自力で自力を、闇で闇を破ることはできないのである。

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