5月の華光誌輪読法座
5月の華光誌輪読法座。 誌上法話「一子のごとく」の前半を読む。
メーンの老婆の廻心は、来月だか、日常の身近な話題で、平易な内容である。それでも「阿弥陀経」の経典の言葉が出て、読み手が戸惑われる。ぼくには、日常勤行の馴染みのある言葉なので、難しいとは思わなかったが、しかし漢文になると、慣れない皆さんには、難解だということがよく分かった。このあたりも、話し手の立場と、聞き手の立場の違いをがあることを、再認識させられる。
座談会も面白かった。例によって名物のM夫婦の夫婦での口論のような言い合いがある。きついようで、どこか関西のベテラン夫婦(めおと)漫才のようでもある。今日のメンバーはだいだい慣れっこだ。言いたい事を遠慮なく言い合う、隠したり、押さえたり、余所に転嫁されないところは、ある意味正直である。でも、言いたい放題のように写って、少しハラハラとびっくりされるかもしれない。しかし、本文にもあった、「邪見驕慢悪衆生」を地で示してくださっているようなものだ。
その我が身よし、我こそよしのこころで、相手を批判していく。でも、その悪口や批判をする同じ口で、最後は「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」の真実が名乗りをあげてくださるのが、勿体なくも、有り難い。「南無阿弥陀仏」と称えることは、我が身を愚かさ、恥ずかしさを知らされることにほかならない。有り難さの裏には、今もまだ、わが怒りの炎が法蔵菩薩様を焼き尽くし、わが欲の津波で法蔵菩薩様を流し尽くし、愚痴の心で法蔵様を無視していることを、忘れはならない。わが身は、どこまでもご苦労をおかけするしかない、いたずらものだ。
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と申す以外は、何もない。
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