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5月の聖典講座

   4月から『浄土三部経』講讃が始まった。前回は、『浄土三部経』全体の総論で、今回は、『仏説無量寿経』の構成・組立てを概観する。投げかけても、皆さんの反応が鈍いのが気になっているが、全体の構成の解説なので、無理もないのかもしれない。

 少しでも身近に感じてもらいたいと、本願寺出版社から出ている『大きなる願い』~仏説無量寿経の話~を見てもらう。何度か上映しているのだが、皆さん「初めて観た」といわれる。まあ、いつまでも初事ということですからね。

 最後に、流通分にある釈尊の教えが龍宮に入ってしまう法滅の時代になっても、この教えだけは-特に留めておかれる(「特留此経」)のお心を味わった。これは第十八願にある「唯除」のお心にも通じるとなと味わっている。単に、未来の法滅の時代の人に対するものだとすると、意味がない。もろちん、釈尊の大慈悲のお心の顕れだが、それでも不自由分。地獄一定の私は、末法の世においても、弥陀の本願以外には救われる手がかりは皆無だ。しかし、それだけでは、下手をすると、『大経』が、落ちるもののセイフティーネットとしてあるような、軽い扱いになりはしないか。それでは、「最後は念仏で」とか「お慈悲の親なので」というような助かることを前提にした甘い聴聞がまかりとおってしまう。そこが、まさに易往而無人である。結局、「いずれの行も及びがたい」「絶対に救われることのない」この私にほんとうに涙したことがなければ、このお心を喜ぶことができないと、そんなことをいま味わっている。これだけではよく理解いただけないかもしれないだろう。詳しくは、講座で、、。

  6月から、内容に入っていきます。ぜひ、お参りください。

 

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