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2014年5月の27件の記事

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Img_0062 筑豊での仏青と九州支部合同法座。小倉駅に集合して、マイクロバスでの送迎がある。

 何気なく見たら、乗車票が9号ー9号車ー9番。へえ~ 999だ。銀河鉄道じゃないけれどスリーナイン。

 でも、この新幹線は、地獄行き? それとも浄土行き? み親と一緒ならどこなりとも。有難いね。

 

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もう真夏

 長期予報によると、今年の夏は、長雨、冷夏になる可能性が高いという。
 「エルニーニョ現象」の正反対で、太平洋赤道域東部の海水温が低下するラニーニャ現象の徴候があるというのだ。

 
 ところが、まだ5月末だというのに、京都は、もう連日30度を超える真夏日が続いている。いっきに夏である。今日はとうとう33度もまで気温が上がった。事務所も、たまらず扇風機が登場して、グングン回っている。明日からの週末も、33度以上の日が続くという予報だ。明日からの福岡の法座は、半袖いくか、まだ長袖にするのか迷いどころだ。 

 
 京都市郊外に出たら、真ん丸の夕日がちょうど沈むところだった。
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『夢は牛のお医者さん』~5月に観たドキュメンタりー(2) ~

 同じテレビ番組からの劇場版だが、『夢は牛のお医者さん』は、まったく地味で、素朴な素材だ。でも、ここには市井の人間の確かな営みがある。

 新潟県松代町(現十日町市)の過疎の小学校。クラスも低学年と高学年の2クラスのみ。今年も、新入生はない。そこで、子牛を3頭買って、新入生として迎えて、入学式を行うことになった。世話も、子どもたちがする。しかし、あくまで経済動物の家畜であることは、きっちり教えている。だから、体重が400キロを超えたところで、売却するという約束だ。子どもたちが、毎日、愛情をこめて世話をする。校庭を自由に運動させ、のびのびと育った子牛たちが目標体重に達したとき、涙の卒業式が行われた。その入学式や卒業式の模様が、放映されて話題となった。普通なら、これでおしまいなのであるが、その時、ひとりの少女が、このことをきっかけに、家畜の獣医さんになることを夢みる。当日、小学3年生の少女が、立派な獣医になるまでの26年間にわたる記録だ。時には、中越大震災のような大災害もおこるが、基本的には、ごく普通の一家の家族の絆が映し出されるだけである。節目節目ではあっても、これだけの継続して長期取材ができるのも、またテレビの可能性だ。

 高校は、単身で進学校に進み、夢の獣医になるまでは、テレビも持たずに、勉強に励み、一発勝負の国立大学の志望校への受験。もし不合格なら、浪人もせず、私学にも進まず、夢は諦めて、家計を支える覚悟。その彼女が、念願の大学に合格する。そして、ついに獣医の国家試験に合格する。その度々に、家族のそれぞれが、「よかった、ほんとによかった。おめでとう」と涙ぐむ。この時は、まるで、わが子の合格のように胸が熱くなってくる。

 その後、獣医として地元に戻り、結婚し、子育てをしながら、生産者に頼られる獣医へと成長する様子が、丹念に描かれている。獣医といっても、犬猫のようなペットではなく、豚や牛などの経済動物の獣医なので、治療に対する対価と、その動物が生み出す価値が、常に天秤にかけられる。もし、治療費の方が高くなることが分かると、治療は打ち切られてと屠畜されていく。子牛と、子豚の対する扱いもまったく違う。
 そんな現実を前にしても、生産者や獣医さんが、いのちをみつめる目は、常に温かい。
 それは、このドキュメンタリーの作り手のまなざしでもあろう。
                                                                                

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『ホームレス理事長』~5月に観たドキュメンタリー(1)~

    東海テレビ制作のドキュメンタリーの劇場版。
  これまでも、戸塚ヨットスクールの現在を見つめる『平成ジレンマ』。四日市公害裁判を正面から取り上た『青空どろぼう』。そして、「オウム真理教事件の麻原彰晃、「和歌山毒カレー事件」の林眞須美、「光市母子殺害事件」の元少年など・極悪人・死刑囚を本気で弁護する安田好弘弁護士の壮絶な生きざまを描く『死刑弁護人』など、見ごたえのある作品が多い。
http://karimon.cocolog-nifty.com/blog/2013/05/post-669e.html

 『ホームレス理事長』~退学球児再生計画~は、異色作だ。映像を見ないと絶対に分からない、奇妙な、面白さがある。

 高校の野球部に入りながら、さまざまな理由でドロップアウトした球児達に、もう一度、野球と勉強の機会を!という理念で、NPO法人ルーキーズが創立される。いわば、若者の再チャレンジの場である。たとえば、高校野球の特待生として名門の野球部に入った生徒が、なんからの事情で野球部を途中退部したなら、彼らの末路は容易に想像が付くだろう。華やかな高校野球の裏側に、ドロップアウトした球児達もたくさんいるのだ。でも一度、躓いた子どもたちに、落伍者として、次のチャンスはない。しかし、そんな成果主義や格差社会が進む日本において、前途ある若者に再チャンスの機会を与えるという理念は、わかりやすく、また尊いものだ。

 しかも、この理事長は、純粋にそれを信じて、毎日、ひたむきに邁進している。理念を語るだけでなく、自ら、私財をなげだし、電気も水道も止めれていたアパートは家賃怠納で追い出され、車やマンガ喫茶を転々としながら、ひたすら資金繰りの奔走している。けっして金儲けでも、裏があるようにもみえない。

 と書くと、とても立派な人物に見える。ところが、この理事長が何かへんなのである。画面からも、お粗末さが醸しだされて、信頼できる感じがまったくしない。資金繰りのために、闇金に手を出す。撮影スタッフに土下座して、借金も頼む。行動が、いきあたりばったりで甘く、そして、尊い理念とは裏腹に、言葉がなんとも軽いのである。

 一方、この野球部監督をまかされたのは、有名高校を育てながらも、信念を貫くために、保護者と対立し、暴力監督として、社会から一方的なバッシングを受け、高校球界を永久追放された監督である。球児もそうたが、監督も一度、落伍者となったのだ。それが、今回、自暴自棄になって、親の前で自傷行為をする子どもを、本気になって何度もビンタし、諭す場面が描かれる。暴力事件以来、手をあげることのなかった人が、カメラの前でもかまわずに手をあげていくのだ。その本気度が、グッーとくるものがあり、何か信頼できる感じが伝わってくるのとは、また対象的である。

 なんとも、不思議な雰囲気だが、理事長は何か憎めない感じはある。でも、これだけではうまくいかないだろうなーという確信をいだかす。結局、この理事長、他人に甘えているだけで、本気で、自分も、人も信頼することができないのかもしれないなー。

 なんら結論はでないが、いろいろな思いが去来する映画だった。

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続く宿泊法座

 今日は、6月の宿泊法座の打ち合わせが続いた。

1)まず、5月31日(土)~6月1日(日)は、福岡筑豊のお寺での仏教青年会と九州支部の合同法座だ。仏青や九州同人だけでなく、東京、京都、大阪、広島と、遠近各地から参集され、家族連れも3組あって、50名以上の申込がある。中でも、仏青や日曜学校のOB・OGが筑豊にこられるが、これも昨年3月の法話大会の成果である。1日目の夜は、BBQでの懇親会企画があったが、あとは、法話や座談の予定だった。でも、せっかく先輩方もこられるのである。いまの仏青やご縁の新しい人に、50年前の華光会や仏青の様子を話してもらったらという企画が浮かんできた。温故知新である。皆さんにお願いすると、誰も快く引き受けてくださった。仏青誕生のことや、厳しいご示談の様子など、今の華光の皆さんにとっても、また新鮮になるであろう。改めて、スカイプで、九州支部長S子ちゃんと段取りの打ち合わせである。

2)午後には、Rさんが来館。継職法要が終わったばかりだが、6月7日(土)~8日(日)の支部長研修会の打ち合わせだ。以前とは違って、運営委員会の指導で、会議が進んでいる。すでに各支部の状況をまとめた資料も完成している。これひとつでも、大きな成果である。ぼくは、研修の部分を担当だ。7月に実践的な司会者研修会を行う予定なのて、今回は、初心に戻って、華光の特色的な教義に焦点をあてて、「廃立為先」をテーマに。もっとも今日の浄土真宗では、こんな言葉はほとんど聞かれない。それでもまだ教相の上では言われる。では、心相の上ではどうか。そこでの廃立となると、禁句に近いのではないか。そのせいで浄土真宗の他力回向のダイナミックな展開がなくなり、毒にも薬にもならないような甘い教えになっている元凶だと、ぼくは見ている。まあ、そんなことも含めて、運営面でも、支部だけでなく、これからの華光のあり方を、自由に話し合う機会になればと思っている。そのために、リラックスして話し合える場も検討中だ。

3)6月14日(土)~15日(日)の東海支部法座は、知多半島の海岸での法座だ。昨年、三河の聞法旅行で訪れたあたりだが、海岸を散策もできそうだ。法話や座談だけでなく、模擬葬儀の企画もあるらしい。この支部は、毎回、苦労された企画が面白い。 

4)この流れでいくと、6月21日(土)~22日(日)の広島支部法座も、何か企画があっても面白いかもしれない。そして、輪読法座、京都支部、聖典講座と、6月も、目一杯法座が続き、7月5日(土)~6日(日)の東京支部との壮年会の合同法座へ。

5)S子ちゃんとの仏青・九州の打ち合わせのためにスカイプにアクセスしたら、すぐにS先生からコールがある。「7月の東京の集まりですは、どうなってますか」。申し訳ありません。まだそこまで進んでいません。それぞれが1席の法話がある程度のことで、企画はこれから、壮年幹事との相談となろう。せっかく先生が二人揃うので、法話も関連しあって、補えたらという点では一致した。
 こうみると、これからもけっこう忙しくなるなー。

http://homepage3.nifty.com/keko-kai/event/index.html#201406

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衣鉢を継ぐもの

  高山支部も、ずいぶん高齢化が進んできた。参加者も、固定的になってきている。それでも、子どもたちが参加されるのがうれしい。一緒にお参りし、そして法話も聞いてもらう。今回は、97歳の長老から、7歳の子どもまで、なんと年齢差90歳。それが一同で、勤行し、法話を聞き、一緒にお線香を立てて、長時間のお念仏をした。すべて南無阿弥陀仏の働きである。

 ご法話は、仏典ビデオや継職法要の記録ビデオも活用した。休みには、シルクロードのビデオも観た。

 釈尊の後継者ともいうべきマハーカッサパー(大迦葉尊者)の物語。常に、行動や態度で模となる頭陀を行じていた静かなる男が、釈尊の涅槃の知らせに、逆に安堵する六群の比丘の心ない言葉を逆縁として、師の衣鉢を継ぐものとして覚悟を定め、仏典結集(けつじゅう)の指揮される。貧苦の老婆をほんとうに生かし、救う話が有名だが、静かな男から、衣鉢を継ぐ決断をする場は、ほんとうに尊い。

146 継職奉告法要の記録ビデオも観て、改めて気付かされたことがある。伊藤康善先生の写真下で、悟朗先生から法灯を受け継がせていただいたのだ。また多くの有縁法中の証誠に、散華をいただいたとこは尊かったが、左手に伊藤先生83_2、右手には、華光先輩同人の物故者の法名軸がかかっていることに気付かされ、深く感銘を受ける。改めて継職の決意を語ったが、これは何もぼくだけのことではない。

234  みんな、阿弥陀様から、この胸に確かな南無阿弥陀仏の法灯を灯していただいるのである。もし、それを抜いて、人ごとに考えているのなら、それは大乗の至極といわれ、自利利他円満した南無阿弥陀仏のお働きで発揮される浄土真宗のご信心とは、別の喜びになってしまうのだ。では、私はどのように相続し、ご法を喜んでいくのか。大きな課題を、ひとりひとりが受け取っているのである。その意味でも、浄土真宗の法りは、尊いのだ。

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飛騨の里

 Img_1237_1F家での高山支部法座。今回は、子どもたちも一緒にでかけることになった。永代経の時、既にFさんと子どもの間で、高山行きの約束が出来ていたらしい。それほど楽しImg_1240_2みにしている。同じ世代の子どもがいるからだ。仏青の人達も同乗して、車で出発することにした。名神の集中工事を心配していたが、週末はお休みで、助かった。

Img_1243_2 少し早めに出発して、高山観光をする。最近、華光にご縁ができたK君が話Img_1248_2し相手になってくれて、楽に運転できた。予定より少し早めに、飛騨の里に到着した。天気もいい。雪をいただいく飛騨山脈(北アルプス)の山並みが美しい。立山、槍ガ岳や穂高岳も見えている。飛騨の地にしては、かなり暑い。それでも散策にはいい季節Img_1260_2だ。高山市街の古い町並みもいいが、飛騨の里は、ダムなどの沈む前に合掌造りなどの民家が移築されてきた場所だ。田舎の原風景が残るテーマパーク。移築とはいえ、ほとんどの建物が重要文化財に指Img_1260_2_2定されている。

 風景は昔の日本なのに、回りは外国人Img_9875ばかり。こちらが異邦人のようである。2時間ほどかけてかなり丁寧に見て回ったので、さすがに終わりの方は、同じような建Img_9923物で飽きてはきた。でも、子どもたちも予想以上に楽しんでいる。茅葺きの家の美しさと、大家族で暮らし、暑い夏や、豪雪や寒さなどに対応する機能性、さらに家畜や蚕などとも一緒の暮らしを垣間見ることがでImg_1245_2_3きた。そして、その中心には、信仰(祈り)がある。神棚もあるが、Img_1267_2立派な仏壇もある。東が多いようだが、すべて浄土真宗である。

 しかし、この仏壇には、いま、手を合わす人はいない。お供えも荘厳もない。もちろん、人がいなけれど、ここには生きた信Img_9869もないImg_9893のである。核家族化がすすみ、西洋化が進み、より快適な住まいを求めた結果、美しい日本の原風景を醸しだした建物は、すべて博物館へと追いやられた。では、信仰の場、祈りの場はどうなのか。これもまて龍宮ならぬ、博別館へと追いやられていく、過去の遺産なのだろうか。

 
 軽い観光のつもりが、少し考えさせられた。
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学問に王道なし

 龍谷大学深草学舍での真宗カウンセリング研究会の月例会。

 ブライアン・ソーン著の『カール・ロジャーズ』の輪読も3年目に入る。  

  1年に1度、担当が回ってくる。月例会の世話人なので、いつもその年の初回の担当。気楽な一参加者の時と、担当時では、取り組み方や読み方がまったく違ってくる。同じ担当でも、単なる司会役の時と、しっかりとレジュメを作り、発表するのでも、また違う。発表となると、分からないところがあれば、いろいろ調べるし、まとめにしても、理解するために何度も読まねばならない。

 でも、それも年とともに、邪魔臭く、たいへんになるのも事実だ。特に、最近は法座が立て込み、介護のまねごともあって、かなり忙しい。今日も、昼から輪読法座があったので、昨日のうちにレジュメを作りだしたが、いろいろと仕事が立て込んで、結局、午前と法座が終了後に大慌てで、なんとかまとめた。ほんとうに勉強しようとするならば、時間がなくても、担当し、しっかりレジュメを作り、発表するのに限る。学問に王道なしである。

    もっとも、それが出来ないので、なかなか身につかない。これ、聞法も同じだ。どんないい話や講義も、ただ聞きっぱなしで終わっていては、右の耳から、左に抜ける。聞いたことを、自分が誰かに話したり、伝える覚悟がないと、絶対に身につかない。だから、同じ話を何度か話しても、皆さん、「初めて聞きました」と仰ってくださる。おかげで、ぼくの商売は成り立つといっても、過言じゃない。できれば、3年くらいあけることかなー。5年もあけると、絶対、初ごととなる。

 さて、今回はロジャーズへの批判と反論の章で、まず、PCAへの批判である。逆に、その批判を読むと、ロジャーズが目指していたものが、はっきりする。まさに、あらゆる人間関係(心理療法やカウンセリングだけでなく、教育、福祉、親子、夫婦など)における場面で、一人一人の持つ潜在的な力を最大限に発揮できるようにお互いのパワー(権力)を、平等に認める関係を追求するという、大変革をもたらしたのだ。当然、それを脅威と感じた既存権力からの批判も起こる。その批判を通すことで、ロジャーズが目指すものが、より明らかになるのだ。

 盛り上がって、担当分まで終了せずに、6月も引き続けておこなうことになった。正直、おっくうだが、強制的にやらせていただけるのは、ほんとうに有り難い。

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5月の華光誌輪読法座

   5月の華光誌輪読法座。 誌上法話「一子のごとく」の前半を読む。

 メーンの老婆の廻心は、来月だか、日常の身近な話題で、平易な内容である。それでも「阿弥陀経」の経典の言葉が出て、読み手が戸惑われる。ぼくには、日常勤行の馴染みのある言葉なので、難しいとは思わなかったが、しかし漢文になると、慣れない皆さんには、難解だということがよく分かった。このあたりも、話し手の立場と、聞き手の立場の違いをがあることを、再認識させられる。

 座談会も面白かった。例によって名物のM夫婦の夫婦での口論のような言い合いがある。きついようで、どこか関西のベテラン夫婦(めおと)漫才のようでもある。今日のメンバーはだいだい慣れっこだ。言いたい事を遠慮なく言い合う、隠したり、押さえたり、余所に転嫁されないところは、ある意味正直である。でも、言いたい放題のように写って、少しハラハラとびっくりされるかもしれない。しかし、本文にもあった、「邪見驕慢悪衆生」を地で示してくださっているようなものだ。

 その我が身よし、我こそよしのこころで、相手を批判していく。でも、その悪口や批判をする同じ口で、最後は「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」の真実が名乗りをあげてくださるのが、勿体なくも、有り難い。「南無阿弥陀仏」と称えることは、我が身を愚かさ、恥ずかしさを知らされることにほかならない。有り難さの裏には、今もまだ、わが怒りの炎が法蔵菩薩様を焼き尽くし、わが欲の津波で法蔵菩薩様を流し尽くし、愚痴の心で法蔵様を無視していることを、忘れはならない。わが身は、どこまでもご苦労をおかけするしかない、いたずらものだ。

 「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と申す以外は、何もない。

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ホットケーキと『とらわれて夏』

 二条の映画館で、ジェイソン・ライトマン監督の『とらわれて夏』を観る。ケイト・ウィンスレットが鬱のシングルマザー役。脱獄囚との恋と、思春期の息子の葛藤という複雑な役どころを好演。

Img_9673_2 久しぶりに雨林舎というカフェで、お茶にする。

 しばらくすると、コーヒー豆と、ホットケーキの焼ける芳ばし香りが、漂う。

  こんないい香りに包まれると、待ち時間も、至福の時。

 いただきます。
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聖徳太子じゃありません

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 「お父さん、聖徳太子のところまで競争しよう」と、七が言った。「聖徳太子?」 最初わからなかったぼくだが、彼女が見上げた先をみてわかった。

 Img_9721 七は、土曜日か授業参観だった都合で、月曜日が振替休日となる。

 朝は、両親の定期的な診察に付添、遅めの昼食を作ってから、琵琶湖畔の公園で遊ぶ。初夏の陽気で、太陽の下にいるだけでも、汗ばむ。そこに、野球をしたり、相撲をとったりImg_9720 したので、けっこう疲れた。

 さて、冒頭の聖徳太子の謎である。

 七が、聖徳太子と間違えたのは、この人だ。この公園は清林パークといって、奈良時代の国技相撲の行司の祖ともいえる志賀清林をImg_9726 顕彰している。相撲の四十八手の基礎を創始したともいわれている。いまの大相撲の行司は、吉田家から出で、木村と式守に分かれているが、平安時代に途絶えたが、相撲の行司の祖もあるわけ。この公園も、相撲公園の別名もあって、砂場も土俵方、時計も櫓型、それに柔らかい土俵などもある。

Img_9763 「七ちゃん、あれは聖徳太子ではなくて、お相撲の行司さんやわ」というと、あとは「フーン」と、別になんの落ちもなく終了。まあ、聖徳太子の名をしているいるだけでも良である。

Img_9724_3  それにしても暑い。琵琶湖で足を付けながら、ガリガリ君を食べることにした。

 

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 広島法座の帰路。新幹線の車窓から。

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広島支部法座~花祭り雑感~

Img_9705  午前は、広島支部法座の子ども花祭り。お世話役、とても張り切っておられる。進行やお飾りのことで、何度も問合わせや打合わせ。わざわざ近所のお寺を会場にされている「寺子屋」への行き、手づくりの花祭りの紙芝居をもって勧誘もされる。 https://www.facebook.com/media/set/?set=a.626197130796219.1073741841.557765670972699&type=1 

  でも涙ぐましい努力も、残念ながら、子どもの参加は皆無。それでImg_9714 も大人だけで子どもの花祭りの要領でお祝いする。

 お誕生の七歩の歩みから、一歩出るというテーマで。六道-迷いを出るこの一歩は、白道を一歩出る歩みでもある。

Img_9711 最近、よく味わうことだが、この教えは、今生の火の粉を払う一時の癒しではない。迷いの根本の火の元を消す、後生の一大事である。でも、譬えはよく分かっても、実際となるとどうか。迷いの猛火が渦巻き、次々と火の粉に襲われ、モウモウたる黒煙に隠されて、ほんとう の火の元に焦点を当てて消すことは容易ではない。自分では後生に焦点を当てていると思う聞法も、大方は、火の粉や黒煙といった周辺の今生事に終始することが多いのではないか。言葉にとらわれたり、相手の態度や自分の感情に振り回されていて、肝心の火の元とは違うところで苦労して、疲れ切っている。改めて、何を聴くのか、なんのために求めるのかをよく聞いていくことか大事だ。その場合、自分の思いもハッキリさせていく必要があるが、さちにキッチリ教えとしてそこを尋ね、わが思いと照らし合わせてみることも大切である。分かりきっていることだが、「一歩出ることが大切」とか「火の元を消す教え」と正解を聞いただけで終わっていては意味はないのだ。

 午後は、島根組が大勢おまりいくださって、なかなか盛会。座談も新鮮な雰囲気。ゲストの質問もあって、個人的にはずいぶん盛り上がった。聞くものも、説くものも、その姿勢を問われたが、皆さん、よくよく味わえただろうか。

 逃げるものこそが、摂取不取のご本願の正客である。だから、誰であっても、遠慮なく、畏れることなく、一歩を歩ませてもらいたい。この私の一歩の踏み出しに、大悲の親のご苦労、涙が濯がれているのた。

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5月の聖典講座

   4月から『浄土三部経』講讃が始まった。前回は、『浄土三部経』全体の総論で、今回は、『仏説無量寿経』の構成・組立てを概観する。投げかけても、皆さんの反応が鈍いのが気になっているが、全体の構成の解説なので、無理もないのかもしれない。

 少しでも身近に感じてもらいたいと、本願寺出版社から出ている『大きなる願い』~仏説無量寿経の話~を見てもらう。何度か上映しているのだが、皆さん「初めて観た」といわれる。まあ、いつまでも初事ということですからね。

 最後に、流通分にある釈尊の教えが龍宮に入ってしまう法滅の時代になっても、この教えだけは-特に留めておかれる(「特留此経」)のお心を味わった。これは第十八願にある「唯除」のお心にも通じるとなと味わっている。単に、未来の法滅の時代の人に対するものだとすると、意味がない。もろちん、釈尊の大慈悲のお心の顕れだが、それでも不自由分。地獄一定の私は、末法の世においても、弥陀の本願以外には救われる手がかりは皆無だ。しかし、それだけでは、下手をすると、『大経』が、落ちるもののセイフティーネットとしてあるような、軽い扱いになりはしないか。それでは、「最後は念仏で」とか「お慈悲の親なので」というような助かることを前提にした甘い聴聞がまかりとおってしまう。そこが、まさに易往而無人である。結局、「いずれの行も及びがたい」「絶対に救われることのない」この私にほんとうに涙したことがなければ、このお心を喜ぶことができないと、そんなことをいま味わっている。これだけではよく理解いただけないかもしれないだろう。詳しくは、講座で、、。

  6月から、内容に入っていきます。ぜひ、お参りください。

 

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ひとの、ひとの話を聞け~

Img_9689   朝、七の授業参観に出席する。最初、聖典講座があるので無理だと思っていたが、準備も早くでき、うまく帰ってこれそうなので、急遽、出席。

  初夏の陽気。青空が広がる。琵琶湖の湖面もキラキラしている。田植えの済んだ田んぼを通るImg_9700 風も心地よい。

 土曜日の授業参加で、普通の勉強というよりも、今週あった、船で琵琶湖を周遊する宿泊(船上)体験学習について、3~4名のグループでの発表である。http://www.uminoko.jp/

 ところが、どの教室でも、廊下に立ったまま入らない親も多い。母親同士で雑談をしているのだ。それどころか、教室の中のお母さん方も、こちらでも、あちらでも、おしゃべりが留まらない。小声の私ひImg_9688 とりぐらいが、たくさんになるとかなりの騒音となる。子どもたちの発表は、声が小さいこともあって、後ろの席では雑音で聞き取れない。マジ、不快な気分になってきた。普通の授業ではないが、せっかく子どもたちが一生懸命調べてきことを発表すImg_9691るのだ。それを、わざわざ参観に来て、たった40分程度、子どもたちの発表を黙って聴くことができないのだろうか。まだ23歳という新米の若い先生は注意しようとしない。ぼくは、どうせ学校にも保護者にもしがらみのないので、「少し静かにしてください」と喉元まで出てきたが、一人二人のことではない。大声をやると、逆に迷惑かもしれないと、今回は諦めて、子どもの側に立って聴くことにした。おおー、終わり間際になって、着物姿の母親も登場。長女も着物だ。でも、わが子の発表、もう終わってますよ。  

   おしゃべりといえば、この前の継職祝賀会。あまりの盛り上がりに、司会者から、「いま祝辞を述べられていますよ」との注意もあったが、酒も入って皆さんご陽気に騒いでおられる。まあ、お酒の席、めでたい席なので、盛り上がるのは有り難いことだ。でもかなりうるさい。突然、悟朗先生がふらふらと立ち上がったかと思うと、マイクまで進み出て、「人が話している時に傾聴するのが、華光の伝統です。うるさくて一番前でも聞けません!」と、ビッシリと叱られた。騒いでいた皆さんもシュンとなった。あの一喝は、元気な先生の姿がみられて、ちょっとうれしかったかもしれない。皆さんがうるさかったおかげで、貴重な思い出になった。

 とにかく「人が発表している間は、静かに聞きましょう」という当たり前の話である。

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5月の伝道研究会 

 今回は、継職奉告法要の余韻もあって、皆さん、口々に法要に参詣できた印象を語ってくださったが、皆さんが法要の尊さや、懇志会の楽しさをいきいきと語ってくださり、ぼくも感激一入。  

  肝心の内容は、機法一体についての詳細を学んでいるが、もともとは浄土宗西山派の名目で、『安心決定抄』にあるが、蓮如上人の評価でとは別に、今日では傍流の聖教となっている。ほかにも、親鸞聖人にはないが、その意味がとれる和讃などを確かめ、また覚如上人の『願願抄』、存覚上人の『存覚法語』などの用例もあるが、ここでは、あくまで蓮如上人の『御文章』での機法一体について検討を深めていくことになった。『御文章』では、3-7、4-8、4-11、4-14通の4ケ所に詳しいので、一々の出拠を確認していった。そのあとで、機の字、法の字の仏教での意味を押さえて、ここでの用例がどれにあたるかを確認する。

 さすがに悟朗先生である。微に入り細を穿った説明であるが、あまり丁寧過ぎたので、肝心の機法一体の意味を見失いそうなので、概観を改めて説明すると、皆さん、より納得してくださった。

 ところで、「機・法」という話題から、「自灯明、法灯明」関係についての質問がでた。前回の永代経法座の法話とも関連する。もう一度、ぼくのご満座の法話の要旨をお話することになったが、皆さんにも、ぼくにも、内容が整理されてよかった。一度聞いてくらいでは、なかなか頭には入っていないこともわかった。大切なことなので、重複する内容だが、少し丁寧にお取り次ぎしていなければならないと思わされた。

 さて、6月の伝道研究会は、ぼくの都合で休会となります。ご了解ください。

 

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花祭り

Img_9657     子どものお参りを心配していたが、思ったよりにぎやかになった花祭りになった。常連以外にも、大人も子どもも初めてお参りの方があったり、福井からの久しぶりの家族連れに、初めてご主人も連れてこられた方と、さまざまである。

 今日は、母の日だったので、母の日と(お釈迦様の)誕生日に重ねて、私を産み、育ててくださった親のご恩徳に触れたご法話をする。

  私はひとり生きていくことはできない。さまざまなおかげを被り、ご恩の塊であるといってもいいのだが、恥ずかしいことに、ご恩をご恩と分からないのであImg_9667 る。だから無明といわれる。その無明を無明と教えてくださるのが、仏法である。とはいっても、この世のことなら、たとえ生まれたときのことや、赤ちゃんのときのご苦労を知らなくても、それを教えていただけば、少しは母親の慈愛は知り、感じることはできるだろう。教えていただいたことを、聞き、会得することができるからだ。
  では、如来様のご恩徳となればどうか。お釈迦様とご出世くださり、私に阿弥陀様の大悲がかかっていることを教えてもらうことがなければ、無明の私には分かるはずがない。そして、その阿弥陀様の摂取不捨のお働きに目覚めさせられることだけが、ほんとうの幸せであることを、お釈迦様はこの世のなかにご出生になって教えてくださったのである。

 そのお釈迦様のお誕生日。 みんなでお祝いいたしましょう。

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母の日

Img_9656   朝、花屋さんにでかける。やはり賑わっている。

   鉢植えだと、手入れがたいへんなので、アレンジされた盛り花にすることにした。子どもたちもお小遣いで、母親にプレゼントすることにしたが、決め手は花よりもクマの置物がかわいいからという。
 母に贈るものにメッセージを書きたいというので、下の子に頼むと「おばあちゃん、ありがとう。これからもよろしく。ナナホより」と、ちゃっかり自分からの贈り物にされてしまった。一応、母の日で、おばあちゃんじゃないんですが、、。

 とはいっても、子どもたちからも、おばあちゃんに、しっかりエプロンのプレゼントが用意されてたけどね。

 いつもいつも、毎日、毎日、休みなく、ありがとうございます。

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室生天然酵母パンcafe hiroz RooM

Img_9561     教行寺にお参りするたびに、気になっているお店がある。お寺から歩いて1分ほどのところにあるcafe hiroz RooMという天然酵母Img_9568のパンのカフェだ。しかも「室生」と冠されているのに驚いた。パンは室生の向淵製だというのだ。http://deepna.heteml.jp/muroupan/

  地元の方はそれほど利用する雰囲気はなImg_9583いし、近くに観光地があるわけでもない。交通便もわるい。口コミやネット知って、わImg_9596_2ざわざお店を訪ねない限り、フラッと入るような場 所ではない。よくこんな場所で商売ができるなと思うのてある。小さな古い村落の町家で、かなり敷地もある。前には興正派のお寺がある。

Img_9597 ランチは1400円からとちょっと割高だが、前菜に、地元の野菜のサラダ、天然酵母パンとシチューのセットに、デザートと、おいしいコーヒーも付いていて、プチ贅沢な気分を味わえる。

 第一、都会では考えられないはどの広い敷地なのだ。なんでもこの集落一の名家が、都会に移られた場所だという。

Img_9565Img_9572 上の子は、お店だけでなく、この町並みの風情を大喜びしている。何度も、「どうして華光会館は、あんな黄土色のビルなの か」と嘆き、「ここは美しいわ」と喜んでいる。おかしなもので、お寺のお嬢さん方は、こんな田舎のお寺や風景が面白くないという。みんな無いものをねだっているかのようImg_9594で、面白かった。

Img_9593 K先生のご縁がないと、絶対に来ることがない cafeで、法座の合間に一休み。

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竹の子

Img_9627 教行寺を抜けるとすぐ横に神社があり、そこから山道になって、一面、竹藪が広がっている。この季節、竹がグングンと成長するようだ。私達が食べるものは、土から顔だする前のものだから、こんなに見あげるほどに大きくなっても、まだ皮を被っている竹の子?を初めてみた。どうみても竹の子というサイズではない。食するImg_9626 「筍」ではないのは間違いないが、これでもまだ竹の子なのだろう。都会に住んでいると、こんなことでも珍しくて、子どもたちは、皮を触ったりして興味津々。何ものも、実際に見聞きし、触れてみることは楽しい。  

 

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シャクナゲの教行寺

Img_9558_2  お庭のツツジがきれいに咲いている。例年は、9月なので、萩が美しいお庭だが、春もまた格別だ。でも、お寺の自慢はツツジではなく、シャクナゲの微妙な色合いだそうだ。確かにツツジのような一色ではなく、淡いピンクと白のグラデーションが美しい。

  訪れる季節でImg_9559 花が変わると雰囲気も変わるが、今回はそれだけでなはい。初めて子連れでお参りさせてもらった。同じ年頃の姉妹同士なのだが、乳児期を除いて、交流が少なかったし、子ども同士で遊んでもらって、少しでも元気になってもらいImg_9555 たいという思いもあった。先方の親御さんは、ご心配だったようだが、ぼくのこの思惑は予想以上にうまくいって、まるで4姉妹のように走り待って遊んでくれた。決まったぜー 「おとうさん、ブログにこの写真あげてね」と、下の子が言うのでImg_9654、ちょっとだけね。

 ぼくも、継職法要を終えたばかりで、法話に気合が入る 。けっして六根清浄の修行の成果ではない。たった一つだが、ぼくが種々のご方便のおかげで出会わせてもらったよImg_9639_2 き人の仰せを、皆さんにもぜひ聞いていただいきたい。そのために、ここまで来たのである。自分の中にお伝えしたいことがあるのなら、ただ自分を開いてそこをお伝えさせていただいくだけのことだ。こちらが真摯に向き合うと、皆さんも真剣に聞いてくださる。もちろん、義理や役職で仕方なくお参りされている方もあるが、全員がそうというわけではない。この法座、このご縁を楽しみにして、待ち望んでくださっていることもけっこういてくださっているのだ。もう一つ突っ込むのなら、もっと称名念仏のご縁や、口を開いて座談の機会があれば、ご聴聞が進んでいかれるように思う人もあた。しかし、そこは日頃のご教化されるご住職方のお仕事になるので、「どうかお願いします」と申すしかないが、その点でも、このお寺は有り難い。いろいろと募る話はあったが、充実した時間を過ごせてもらった。  

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三佛寺投入堂

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 鳥取の三朝温泉にほど近い三徳山三佛寺にお参りする。以前より行きたいと思っていたお寺だ。

 「先月は、2件の滑落事故がありまして、一人は、頭がパックリ割れたけれど一命はとりとめて、もう一人はヘリコプターでやっと救出Img_1197_2 されました……。どうされますか?」。冷笑のような微笑を浮かべて、受付の若い僧は尋ねた。

Img_9391_2  奥の院の投入堂までの行程は、単なる観光参拝ではなく、かな りの覚悟が必要だ。毎年、滑落による死亡事故が起っているようで、命懸けというのも大げさでないのかもしれないImg_9392 。修験道の行者道で、神聖な修行の場に、観光客が土足で踏みいるようなものである。こんな言葉を聞くと、軟弱なぼくはビビッてしまう。第一、今日は、しんどいことをする気分も、体力もなImg_9395_2 かった。本堂や宝物館を拝観し、遥拝場から拝んで帰ることにした。でも、下から眺めてもどこにあるのかがわからない。設置された双眼鏡で、やっと遥か遠くの投入堂を拝むことができた(写真は200ミリの望遠だ)。たまたま知人を案内されいた方が、お声をかけてくださる。「せっかく京都からお出でになって、ここで帰ったら大阪あたりで後悔しますよ。昨年も夫婦で登って、感激したけれど、往復2時Img_9399間足らずです」とお誘いをいただく。せっかくここまで来たのだ。麓からよく見えないので、戻って登ることにした。継職法要もすんだことだし、清浄な気分で修行Img_9415_2_2するのも悪くはない(?)

 入山申請書を書いて、服装のチェックを受ける。軍手を購入し、このスニーカーではダメだといわれて、草鞋も1足700円也で購入した。裸足での慣れない草鞋で、険しい道を行くことになる。急に不安になった。こんな足元で、果たして岩や石だImg_9503 らけの道なき道を行けるのだろうか。六根清淨の輪袈裟のお護り(?)を目印Img_9422に、いざ、スタート。すぐに「忌穢不浄の入山禁止」の碑がある。六根不浄だらけのぼくは、入山の資格すらないということだが、まあ仕方がない。すぐに、え-、どこが道なの? こんなところほんとうに行くの か?という道なき道を進むことになる。自然の岩や木を頼りに進んでいく。岩や木はまだ登りやすいが、土の部分では確かに滑りやImg_9431 すい。雨の翌日など、これは怖い。不思議と、お寺の方のお勧めの裸足に草鞋がフィットして歩きやすい。

Img_1201_2_2  両手をあけてくださいというのは、ロッククライミングのようで、足だけなく手も必要ということだ。青空が拡がり、緑も美しい。ところどころ に、お堂や祠が散在する。降りてくる方に声をかけてもらったり、声をか けながら、くさり坂の岩場をのぼり、Img_9438 断崖に立つ文殊堂へ。景色がいい。風も涼しい。遥か山頂に雪を頂く大山も見える。たImg_9450だ、手すりのない縁側の下は断崖なので、みんなは怖がって おられた。さらに、地蔵堂を抜けて、鐘楼堂へ。こんな釣り鐘をどうして運んだのだろうか。小さな祠のような納経堂も、国 の重文に指定されている。くImg_9531_2り抜かれた大岩の中に立つImg_9443_2観音 堂から、やっと奥の院の投入堂の前までたどり着いた。

入堂は出来ずに外から拝むだけだが、懸造 りの建築は、写真家の土門拳氏をして、日本第一の建築だといわしめたお堂だ。想像していたよりも小さい。だが、役行者が法力によっImg_9530_2て投げ入れたという伝承が、真実に思えるほど、こんな断崖絶壁の山奥に建てられたことを不思議に思う。汗だくにImg_9424 なりながら登った甲斐がある。しかし帰路を考えると安心した気分にはなれない。事故は、下山時に起っているというから、要注意。なんとか、ゆっくり 写真も撮りながら往復100分ほどかけて下山して、冷水で汚れた足を洗うと、なんともいえない清々しい気分になった。うーん、たまには修行をするものいいなと思いながら、お腹が空いたので昼食は何にしようかと考えるありさまだ。結局、身についた虚仮不実、不浄は拭えないことを有り難く感じさせてもらった。
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倉吉の町並み

Img_9541  予定にはなかったが、ランチのために、倉吉に足を延ばす。なぜか、そこは幸福の科学の信者のお店だ。関連のポスターやら本が並べてある。ここまでいくと潔い。

 倉吉の町並を楽しむことにしImg_9543 たが、白壁土蔵群の町並みが美しい。倉吉出身の琴桜の記念館があった。あ、この銅像、けっこう似ているなー。

Img_9546  でも、雨がパラパラ降ってきた。投入堂の時でなくてよかったと思いつつ、おいしそうな日本酒源酒を土産に、慌てて帰路につくことにした。Img_9540

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『アナと雪の女王』

 永代経法座の最終日、京都同人のある方から、「面白かったから見ておいで」と子どもたちがチケットをもらった。子供たちが見たがっていた「アナと雪の女王」 だ。大ヒットの話題作、連休中ということもあって混雑している。日頃、観客が5~6人だけ(それでもまだたった一人ということはないないなー)という映画をみることもあるぼくにすれば、大勢の人だけでも酔いそうだ。幸いネット予約なので、スッーと入れた。

 ぼくも予告編では、「レット・イット・ゴー」~ありのままで~を何度も聞いてきた。宣伝上手と思ったのは、惜しげもなく、予告編から主題歌をフルコーラスで聴かせていることだ。普通は、サビのところをちょっと見せて、引っ張るのにね。今日は、子連れなので日本語の吹替版だ。ストーリーは、単純といえば単純。でも、ちょっとひねり入れてあるので、面白いといえば面白くて、最後には、けっこうジッーとなったりもする。個人的には、このアニメなのに、実写ぽい作り物感のタッチか馴染みづらかったが、子どもたちは、「きれいだった。もう一度行きたい」と大喜びして、帰ったらさっそく主題歌をダウンロードして聞いている。

 終わってから、カフェでお茶して、あれこれ映画の話題を話す。日頃、映画は一人で観ることが好きだが、たまには家族で見るのもいいものだ。

 

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華光出佛のおこころ

  一々の華のなかよりは 三十六百千億の
   光明てらしてほがらかに いたらぬところはさらになし 

  一々の華のなかよりは 三十六百千億の
   仏身も光もひとしくて 相好金山のごとくなり

  相好ごとに百千の ひかりを十方はなちてぞ
   つねに妙法ときひろめ  衆生を仏道にいらしむる
                                                        (浄土和讃)

 華光会館の道場には、「華光出佛」の額がかかっています。『大無量寿経』の上巻の終わりにある、きらびやかなお浄土のありさまです。
   そのおこころを、親鸞聖人は、『浄土和讃』で三首にも渡って、ほめたたえておられます。

 まず、華光の華は、お浄土に咲いている華です。その一々の華の中から、三十六百千億の光が放たれ、それが「光明照らして朗らかに」光輝いている。その華から放たれている光は、「いたらぬところはさらになし」ですから、いま、ここにも、お浄土からの光が届いているのです(第1首目)。

 さらに、その華から放たれた光とは、実は仏身、つまり仏様のお身体そのものなのです。そしてその仏様の相好、つまりそのお姿は、金の山のようだというのです。そして、またその一つ一つの光が、あるいは仏身からも光が放たれているのです。まさに光が光を照らしあう世界です。(第2首目)。

 しかもその光が十方に放たれて、常に妙法説き弘められています。妙とは、人間のはからいを超えた妙なる世界のこと。法は仏法の法、おみのり。いつも妙法を説き弘めているおられ、私達は、そのお光に会うことで、妙法に会わせていただくのです。以上を言葉を変えていうと、如来のお呼び声が響きあう世界を顕しておられるということになります。そして、そのお光によって、生きとし生けるもの、つまり衆生が仏道に入らせていただくというのです(第3首目)。  

   今回の継職奉告法要では、この華光出佛の讃歌を、同人一同で声高らかに歌わせていただきました。感無量でした。

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永代経法要並びに継職奉告法要御礼

 3日間にわたる華光会の永代経法要並びに継職奉告法要も、盛会のうちに終えることができました。同人の皆様、たいへんお世話になりました。

 例年の法座の中日が、継職奉告法要法座でした。もうすでに継職は済んでおり、わざわざ法要を開く必要もないとも思いましたが、実際にこのような機会をいただき、華光会館の道場のご尊前で、灯火(法灯)のいただき、そして散華で讃えられ、有縁の法中や同人の証誠を仰ぎ、皆様と華光出佛を体感させていただいことは感無量でありました。また同様に、盛大な祝賀会を催していただいたことも、たいへん有り難く、身に余るほどの喜びでありました。

 いまだに言葉にならないほどの力を頂きましたが、真宗の可能性ということでは、いろいろなことにチャレンジしてみたいとの勇気を頂いた気がします。特に今回、ブッダ最後の言葉「師に握拳なし」のおこころを、法然さまや親鸞さま、そして伊藤や西光先生、もちろん悟朗先生の対人的態度に感じさせて頂きました。ぼくも、わが信を開いて自らの仏道を歩んでいきたいと思います。

 これも一重に、有縁の法中の先生方、ご苦労くださった役員やお世話の方々、そして、ご参詣の皆様のおかげであったと喜びにはおれません。それどころか、今回はこの場にはおられない物故者となられた多数の先輩同人、または疎遠となってしまった先達のお育てのおかげだったと喜ばずにはおれませんでした。その意味でも、皆様方の長年に渡るご教化の賜物以外のものは何もございません。

 言葉ではいい尽くせないほどの尊いご厚情を賜り、人間の言葉では「ありがとうございます」と頭をさげるしかありませんが、幸い、真実のお言葉を教えていただきました。ただ、
 「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」。

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 3月の寒中仏の子ども大会の閉会式でのことだ。

 各学年別の分級座談会の感想や報告があったが、中学生グループは、子どもとして最後の参加となる中学三年生のIちゃんと、中学二年の我が子が代表となった。

 その日の朝、「仏智疑う罪深し、この心おもい知るならば、悔ゆるこころを旨として、仏智の不思議を信ずべし」のご和讃でご法話があった。  
 それを受けて、彼女が言った。尊い仏様のお話を聴かせていただきながら、ほんとうに信じられるのかというか、疑いの心がでてきたり、分級座談会でも、大切なお話だと真剣にきいていたの、次のゲームやイベントがあると、もう仏様の話などどこかへ行ってしまう。心の底から信じられないという気持ちを、分級座談会で吐露したという。  

 すると、先生から、「そんなものも好きだと願ってくださっているのが阿弥陀様。すべて見抜き、分かってくださっている。だから、ほんとうかなという心を持ったままでもいいので、阿弥陀様の願いを聞いていてほしい」といった意味の話あを頂き、とても勿体ない気持ちになって、涙ぐみながら話してくれた。

 ほんとうにそうだなと、わが子の涙が尊く思えた。

 浄土真宗の聞は「疑心有ること無し」である。煩悩はお許しだが、疑いは嫌われる。捨てていかねばならない。だから、「疑わず信じています」と、みんな信じるになりたいと頑張っている。しかし、自分でそう頑張り、信じていることこそが、実は自力である。阿弥陀様の本願は、自力ではとうてい信じきるとのできない広大な願いだ。自力と他力では、まったく次元が違いすぎるのである。疑いを晴らしてから、聴くのでも、信じるのでもない。その心にかまわない、その心にとらわれないで、阿弥陀様の願いを聞き抜いていくしかないのである。疑いが晴れるのは、阿弥陀様の真実の光にあうからだ。自力で自力を、闇で闇を破ることはできないのである。

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