輪読法座~お仏壇のこころ~
輪読法座~お仏壇のこころ~を、何度も声にだして、読みました。
今回の巻頭言は、修士課程を修了されたばかりのM師に、始めてお願いしました。
「お仏壇のこころ」と題して、阿弥陀様の願心を、やさしく、温かい文章で書かれています。
浄土真宗のお仏壇は、阿弥陀様のお浄土の表現されています。その荘厳(しょうごん)には、ひとつとひつ意味があります。お花は歓喜、蝋燭(灯火)智慧、お香は清浄を顕しています。お正信偈の十二光に「清浄・歓喜・智慧光」とありますが、それぞれが衆生の三毒の煩悩を破る働きがあります。つまり、清浄は貪欲を、歓喜は愼恚を、智慧は愚痴を破るのです。
阿弥陀様の浄土は、「願心をもって荘厳」された世界です。本来は、衆生の妄想するような実体のある世界ではなく、「いろもなしかちてもましまさず」の、凡夫には計らうことのできないものです。しかし、真実そのものの阿弥陀様は、大慈大悲の願心から、名を垂れ形を示してくださって、南無阿弥陀仏と名乗ってくださいました。さらに、そのおこころ汲んで、この私にもわかるお浄土の荘厳相と成ってくださっているわけです。
そして、荘厳がみな私の方に向いてるのは、仏さまからの私へのプレゼント(他力回向)を顕しているのです。そして、「お前のために、こんな国を用意したよ。ぜひとも、来ておくれ」と、仏さまがお仏壇となって私を喚んでくださっているのです。
これを、単に知識として知って仏壇のおまつりをするだけでなく、私の身をかけて、つまり体験的に阿弥陀様の願心、他力回向に遇わせていただくことが、大切だという話がでました。
大遠忌法要のシンポシウムのご講師だった信楽先生も仰っていますが、私達の真の生活とは、まず仏壇を中心に、阿弥陀様(南無阿弥陀仏)に合掌し、そして「南無阿弥陀仏」と称名念仏することから、信の心が育つのです。まさに「信は荘厳より生ず」です。それが、具体的な聞法の始まりだとするならば、とてもわかりやすく、いまからでも実践できることではないでしょうか。
そのおこころにそって、M師も、「南無阿弥陀仏を中心に、仏法に関すること一つ一つを丁寧に味わわせていただくことが、ひいては自信教人信の仏道の歩みになると思っています。」と結ばされいますが、この一文が、M師自身の仏道に対する常日頃からの願いだと感じました。
| 固定リンク