九州支部法座~In熊本
九州支部法座は、福岡での法縁が多かったが、昨年に続いて、熊本で開催れさた。遠方ということもあって、九州同人の参加者は多くはなかったが、福山から参加者や、20代の若いお寺の子弟も数名お参りくださった。法話だけだが、ご門徒さんや、S子やK子姉妹のお友達、職場の知り合いなどの参加もあって、バラエティー豊かな法座となった。外部からの参加者が交じると、いろいろな意味で刺激にもなる。
座談の話題が「縁」ということだったので、初めての方向けに、植物のタネからの因縁生起の話と、さまざまに受けているご恩徳の深さを知ることについて話した。この話題では、だいたい子育てを通した例話が多かったが、いまでは、父の認知が進み、排泄のことなどでけっこう悩まされている。最近、外でおこった困った問題を通して聞いていただいた。話すうちに、感情が押さえられなくなったが、結局、そのことを通し
て、ぼく自身が尊いご縁をいただいているのてある。
また、今回は、同人の3名の方に、信仰体験発表をお願いした。それも、なとなく定番の方ではなく、まだ求道中に方も含めて、いまの心境や聞法の経緯などをお聞かせいただいた。三者三様で尊く、面白かったし、発表者にもこれまでの歩みの整理になるように思った。 同時に、「超世の悲願」を聴くとこは、難中此難だとも感じさせられた。聞法は、自分の感じや体験を確固たるものにするのではなく、自分には実感や理解出来なくても、まずは「仰せ」を聴くことであるのだか、実は、ここに尽きるのに、これが一番難しい。
それを、「弥陀の本願」まことに出会われた「よき人」や「よき仲間」の懇ろなご教示があって、その「仰せ」を被る身にならせていただくのである。信不具足の例えではないが、「道」がることだけを喜びのでは不十分で、その「道」を歩み達した「得道」の人に出会い、その「仰せ」を被るからこそ、開けてくる世界があるのだ。もし、こ縁を喜びのであれば、今生の身の幸せではなく、後生の一大事の解決を教授くださった明師との出会いを喜びである。
後世、生死出べき道に苦悩しておられた親鸞さまに、「源空(法然聖人のこと)があらんところへゆかんとおもはるべし」と仰った法然さまと、「たとえ法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候」と、その「仰せ」を頷かれるところまで聞き抜かれた親鸞さまとの、出会いがまさにそうではないか。
それは、時代がへても、いま私達も同じである。
まさに「源空・親鸞が、あらんところへゆかんとおもはるべし」の仰せである。
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