高山支部法座~聖人のご生涯~
春の高山支部法座。3月に入っても、強い寒気が居すわる。昨年の8月と12月は、子ども連れということもあって車で向かったが、今回は、雪を心配て、列車に乗った。岐阜からは、仏青のYさんとご一緒になる。途中までは、快晴でまったく雪の心配はなかったが、高山に近づくにつれて、一面の雪景色である。それでも、覚悟したほどの寒さはなかったが、朝は、やはり「しみた」ようだ。
今回は、親鸞聖人のご生涯を、3つのターニングポイント-ひとつは、比叡山を降りて法然聖人のもとで回心されるまでの苦悩、もうひとつは、法難による越後流罪以降の非僧非俗の精神、そして最後は、臨終のありさま-を、聖人のご持言や消息、恵信尼さまのお手紙を通して味わった。教義的な問題ではないが、こうしてじっくり味わうことで、親鸞さまという人となりを通してしか伝わってこない、教えの核心が見える気がした。
と同時に、その後の浄土真宗が教団として発展する過程で、教義が体系化され、教学が生まれ、組織が完成されることになるのだが、それでしっかり相続され護られきたことも多かっただろうが、一方で、巨大化した組織や人間関係、形骸化した教学の中で、ほんとうにいきいきした法座や、めざめの体験としてのご安心が躍動しているのかと問われれば、現状はこころもとない。
実は、親鸞聖人がそうであったように、さまざまな宿業を抱えた生身の、いま、ここに生きている私が、そして、これもまた、いま、ここに生きてはたらく阿弥陀様のご本願にブチあたり、目が覚めることがなければ、絶対に開けてこないまことが、浄土真宗ではないのか。
結局、とんでもなくおそろしい事実だと思うが、ひとり、ひとり、ほんとうに私ひとりが、後生の一大事にこころをかけて、弥陀の本願を、聴くのか、聴かないのかが、いま、まさに突きつけられているのである。甘い、温かい、すべてのものが救われるという浄土真宗風が、流行りなのかもしれないが、ぼくには、そんなものはなんの魅力も感じられない。
自らの業に苦悩し、強情な自力に泣き叫び、そして弥陀の本願を前に号泣させられる。聖人のご生涯のお言葉を訪ねれば、そんな厳しさ、おそろしさがつねにつきまとっているのではないか。そんなことを、高山の皆様のお姿を通しても、直に味わえる幸せを思った。南無阿弥陀仏
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