聖典講座~今現在説法~
9月から担当を初めた「聖典講座」。10月から伊藤康善先生の「真宗安心一夕談」をテキストにしている。華光に流れる伊藤先生のご教示であり、浄土真宗の安心の要を端的に示されたものだ。もともと、先生の信仰体験談である『仏敵』の付録として掲載れさていたが、『仏敵』が現量なら、『真宗安心一夕談』は、聖教量の意味がある。
華光会は、単なる心理主義、体験至上主義ではなく、三量批判が、その中心にある。このこと、何度も押さえておきたいところである。この三つは、今日の浄土真宗が失っていしまった大切な量りである。むしろ、現状は、教条主義や学解往生に陥っているのではないだろうか。そして、心理主義や教条主義に偏らない道としての比量が意味を持つ。
ご承知のとおり、浄土真宗は、「安心」と「法座」という二つ車輪によって拡がってきた。が、教化の要であった「法座」が形骸化し、現量や比量はなくなり、ただ聖教量のみが盛んであるのが、現状だ。もっとも一般寺院の多くは、法話とは言い難いものもあって、聖教量もあやしいが、教界は知性優位で正しい教義を中心としている。しかし、いくら正しい教義を覚えて理解したとしても、それがイコール「安心」ではない、というあたりまえの話が、通じなくなっている点にある。いわば、ハンドルの操作はうまいが、肝心のエンジンがない車のようである。西本願寺のご門主は、ハンドルのなる教えと、エンジンになる教えという区別をされているが、教えではなく、安心そのものの問題ではないかと、ぼくは感じている。
どんなに教学を理解し、根拠を正確に並べ、また他力廻向の表現に細心の注意を払って伝えたとして、肝心の私の口から念仏が出ず、喜びが溢れてくることがなければ、空しい。
阿弥陀様は、今、まさに、今現在説法で、この私めがけて叫び続けておられる。その呼び声に遇うために、一大事をかけて聞法する。その呼び声に、この命をある間に、応えさせていただく身にならせていただく。だから、それは過去の話でも、一念の時の記憶でもない。今も、常に、呼びかけてこ説法くださり続けいる。それが、私に届くのである。だから、私も、恒にだが、喜ばせてもらい、念仏させてもらえるのてある。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
こんな尊い、勿体ないことが、他にありますか?
| 固定リンク