「広島」それとも「広島風」?
さて、お導師さまには、ご迷惑なことだろうが、最前列に座り、一緒に勤行させてもらった。通路を隔てた横には、喪主が座っておられる。これも衣のお徳である。本派の勤行だ。いろいろな場所で、葬儀に参列をさせていただくが、その地方、地方で、多少の地域性が出でくるのを知っている。さすがに、広島は、真宗どころだ。位牌を使われず、勤行も正規のものである。
出棺勤行と、葬場勤行は30分ほどで終わった。少々尺が短いないと思っていたら、ここからが「広島風」?というのか、葬儀に引き続いて、「野辺の送り」(と、アナウンスがあったと思うが)の勤行が始まり、『讃仏偈』、「其仏本願力」の文のあとで、わざわざ「御文章」拝読の場所に移動され、「皆様、頭を垂れてご拝聴ください」とのアナウンスまであって、出棺前に『白骨の御文章』が拝読された。これは、初めての経験だったが、広島の葬儀では一般的なのだろうか。
法要は法要で、弔電の披露や喪主のご挨拶も導師退席後に、次のセレモニーとして、流れの中で行われるので、すっきりとしている。お別れのセレモニーも、故人と、親族の皆様方との深い結びつき、一族から慕われている温かさが、ヒシヒシと感じさせられるもので、深く心に残った。
本筋とは別だが、いちばん関心したのは、「お清めの塩」がついてこなかったことだ。ケガレの思想は、ほんらいの仏教とは無関係で、特に、浄土真宗では無用なことだが、他の地方では、かなりついてくる。位牌といい、清めの塩といい、さすがに、広島だと感心させられたがた、きっと、これもお寺さん方の長年のご苦労があったのだろう。
帰路は、新幹線の駅ビルで、参列のM姉妹と、広島風お好み焼きを食べた。
長い公私にわたる広島とのおつきあいがあるに、広島でお好み焼きを食べるのは、これがたった3回目だ。そのうち、1度は「徳川」の元店長と食べたが、あれは関西風だった。「徳川」は、広島や山口では知名度が高いが、関東や関西にはないローカルな話題だ。
「広島風」は、昔、やはり広島駅ビルのお店のカンウターで食べたのが初めで、15年ほど前の話だ。それ以外は、家でも一度も食べたことはなかったので、今回が2度目のご縁となった。聞き覚えのある、「みっちゃん」にはいって、ネギをトッピングした。しかし、鉄板ではなく、お皿でだされて、場所の雰囲気も観光客向けのお店感も強くて、うーん、まあまあというところかなー。近くには、広島風」と大きく銘打っている店もあったが、ほんとうは「広島お好み」で、「風」(ふう)はいないんじゃないのかという話題になった。
それにしても、この○○風は、たとえば京料理ではなく、京風料理、とするだけで、かなり幅広くなって、「風」なのでお許しください、といった大雑把にとらえることができる、なかなか便利な言葉である。
うーん、そうすると、今日の浄土真宗の大半は、浄土真宗風じゃないのかと、ちょっとバカな、もしかすると真っ当な疑問が起こった来た。信一念の廃立が抜けているなら、浄土真宗テイストであっても、やっぱり「浄土真宗風」にすぎないのではないかと。まあ、そう感じるのは、本家を自負しているからだが、誰もが自己が正しい、本流と思っているのだから、ちょっとややこしくなるなーと。
親鸞様、ほんとうにゴメンなさい。南無阿弥陀仏
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