東京法座~「恵信尼消息」雑感
2月の東京支部法座は、4座のうち、2日目の昼座は「支部総会」で、法話はなく、信仰座談会のみ。その代わり、朝座は2席にわけて、長めに法話した。
報恩講から味わっている「親鸞聖人の三つのご持言とご遺言」というテーマ。それに加えて、そこから派生して、明確な日時が示されている八十八歳の「聖人最後のお手紙」と、聖人のご臨終に立ち会われた末娘の覚信尼公が、その時のご様子を越後の恵信尼公に送られ、そのお返事である「恵信尼消息」(恵信尼さま八十二歳)のお手紙の二つを味わった。
中でも、「恵信尼消息」は、大正時代に、本願寺の書庫から発見された恵信尼さまの真筆のお手紙で、越後の恵信尼公から京都の覚信尼公に送られたものだ。一昨年の越後の聞法旅行で、「ゑしんの里」で工夫された展示を見せてもらったが、親鸞聖人の若き日の姿や行実、また家族に関することなど、これでしか知り得ない貴重な資料。何よりも、この書状によって、親鸞聖人の歴史上での実在が確認されたという経緯もある大発見であった。
しかも、ここでとりあげたお手紙は、聖人のご往生に際して、たとえば、あれだけ美辞麗句で飾るだけ飾られた『御伝抄』ですら、ご往生が何の奇瑞もなく静かな最後である(そのことはとても有りく感じるので、続編で)。ところが、この手紙によって、末娘の覚信尼公は、父(聖人)の臨終のありさまからご往生を不安に感じた様子が窺える。それに対する恵信尼さまのお返事では、生前にみた夢で、法然聖人が大勢至菩薩の化身、それに対して(聖人は伝えなかったが)、親鸞聖人を観音菩薩の化身であると確信して、それゆえに極楽往生は間違いないと述べておられる。それを言い出すと、親鸞聖人でさえ、法然聖人の臨終の奇瑞の様子を嬉々として和讃されているし、『選択集』の書写を許されたことを「決定往生の徴だ」と歓喜の涙を抑えて書かれているのだから、このあたりは、みな凡夫というか、人間的に微笑ましいともいえる。
今日は、そんな余談の部分で、ちょっとした真宗の秘話(あと、善鸞大徳のその後をふれた、覚如上人の伝記(慕帰絵詞)など)にも触れたので、皆さん、日頃聞かない、聖人の身内の行実に、驚いて反応が大きかった。
しかし、もちろん、ここで「恵信尼消息」取り上げた意図は違う。
聖人が求められたのは、ひとえに「後世」の助からん縁であり、そのために比叡山を降りる、つまり聖道自力を捨てるまでの葛藤と、法然聖人との出会いで、専修念仏一行を選ばれたこと。それは、他力の本願をお伝えくださる、よき人法然聖人との出会いでもあって、生死出づべき道を一筋に求められるのだか、ここに聖人(真宗)の求道の要が述べられているともいえる。
つまり、「源空(法然聖人のこと)があらんところへゆかんとおもはるべし」(執持鈔)と、後生は、共に弥陀の浄土へまいりましょう、という法然聖人のお示しを、100日間かけて聞き抜かれ、そして、ついに「上人のわたらせたまはんところには、人はいかにも申せ、たとひ悪道にわたらせたまふべしと申すとも、世々生々にも迷ひければこそありけめ、とまで思ひまいらする身なさば」という、心境になられたことが示されている。これは、『歎異抄』などにも符合するものだが、ここに親鸞聖人の腹の坐りがあり、臨終ではなく、この平生のよき人との出会いによって、往生は疑うべき身になられたことが示されているのである。
このお手紙、またご法話で詳しく取り上げていく。
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