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広島法座で味わったこと

 幸い日曜日は、西日本では雪は一段落した。それでも、岡山あたりから、かなり広い範囲で雪が残っている。このあたりでは、珍しいものだ。

 広島支部法座。天候のせいか、出足しは悪かったが、徐々に増えて、常連以外の参加者もあって、そこそこのお参りとなる。

 座談会も、ある参加者の発言から、後半になってかなり盛り上がった。

 それにしても、この娑婆の人生は思いどおりにならないことばかりだ。

 実際、理不尽な、不幸を背負いながら、困難を生きていかねなばならい人もおられる。そんな苦悩する人を前に、念仏者の「私」は何をなせるのか。もしその方のの苦しみや悩みが、少しでもやわらぐのなら、祈祷やまじないをお勧めすることはどうかという問いがある。

 確かに、猛烈な苦痛を伴う苦しみや悩みに苛まれている人は、後生の解決よりも、その目の前の痛みや苦しみを除くことを、最優先になる。そんな人に、いくら「火の粉ではなく、火の元の解決、今生ではなく、後生の一大事だ」と、正論を言ったところで、たぶん、その人の心にお念仏を届くことは、なかなか難しいことだろう。

 その意味では、いくら真宗念仏を喜んだといっても、現実に苦悩する人を前には、私のなせることはまったく無力なのかもしれない。とれほどいとおしい、不憫と思っていても、その慈悲には限りがあるのだ。

 たとえば、相手のこの世で求めている幸せの助力になるならば、お金に困っている人には、お金を貸したり、仕事をあっせんすることが解決につながるかもしれない。不治の病で苦しむと人には、それにふさわしい治療法や病院を紹介すれば、喜ばれるだろう。夫婦不和や家庭に悩みがあるのなら、親身に相談にのり、適切なアドバイスをすれば、うまく解決に進むかもしれない。肉体的な痛みがあるなら、それが除かれることで安心をえるように、心の痛みや苦しみもしても、同じことがいえるのだ。

 しかし、真宗念仏の教えは、そのような目先の解決に、お念仏を利用しない道を示してくださった。阿弥陀様のご本願は、この世の現実に目を背けて、後生に甘い幻想を抱く教えではないのである。だから、真宗はお慈悲の教えで、どこか温かい、甘い匂いがするように思えるが、実は、とても厳しい教えではないだろうか。

 親鸞聖人ですら、越後から関東に移られる途中、佐貫というところで、飢饉で多くの人々が目の前で餓死する現実を前に、浄土三部経を千回読誦し、なんとかその功徳を回向しようとされたことがある。しかし、その途中で、自信教人信こそ仏恩に報ずる道あることに気付かれて、その自力の試みを中止されている。他力念仏以外に道はないことに、ふたたび気付かれたのであるが、これは後々にあって、夢にまであらわれて、自力の執心の根深さに驚かれることになるのである。

 苦悩の有情を見捨てることができずに、立ち上がってくださった阿弥陀様は、けっして、私の欲望を満たすための道具でもなければ、現実逃避で、幻想を頂く教えでもない。

 この凡夫の私の身で、現実を生きるということはやさしいことではないが、このなま身ひとつで、わが業と向き合って生きよというお示しなのである。いくら仏壇にまいって、お念仏にはげっても、その厳しい状況はかわることはない。当然、そう生きることは平坦な道ではない。

 しかしである。泣きながら進む道は、それをわがこととして、共に泣きながら歩んでくださっていた阿弥陀様に出会わせていただく道でもあった。「待つ」というのは、他力のお心。ずっと、待ってくださっていた阿弥陀様に出会わせいただく道でもある。そのことを、お示しいただける法の仲間に出会ったことは、まさに遠い遠い宿縁のなせるわざであって、そのそこには、ずっと「待ち」続けてくださっている阿弥陀様がおられるのである。

 結局、苦悩する人を前に、私の凡夫の限界、無力さを知らされるばかりであると共に、しかし、その人にも、ずっと阿弥陀様が待ってくださり、願われている尊い人であることに気付かれるのである。だからこそ、勿体なくも、阿弥陀様のお心そのものである「南無阿弥陀仏」のお勧めさせていただけるのではないろうか。南無阿弥陀仏 

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