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輪読法座~許されて聴く~

 華光誌輪読法座。人数は多くなかったが、その分、じっくり、しんみりと読ませていただいた。発言も、誰かを指名することもなく、ポツポツでも、全員が味わいを語ってくださった。ただ、みんなと声に出して読むだけでも、ひとりで黙読しているのは、まったく違うのである。最後のところまでくると、涙と共に読んでくださって、それもまた有り難かった。(最終章だけ抜き出します)。

    今、ここで喜ぶ教え
 冒頭に(新潟の)I生のお話を申しました。私は本当に様々な方のお育てを受け、懇ろなご教示と、噛み砕いたお話をいただいたおかげで、今、お念仏を喜ぶ身にさせていただいております。誰一人欠けても、私は仏法聞くことができなかったのです。皆さんも同じです。噛み砕き、噛み砕き言葉にし、一つ一つを丁寧に、手を変え品を変え、先生やお同行となり、怒られたり、優しくされたり、なだめられ、ほめられしながらお育てをいただいてきたのです。
 今、皆さんは、どんなお気持ちご聴聞されているのか知りません。しかし間違いなく、大きなご恩徳の中、「南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」の中にいるという、その事実を聞いてください。これは今ここでしかないんですよ。自分の心がどうであろうが関係ない。私は妄念妄想だらけでも、この南無阿弥陀仏だけは、何事にも汚されない、蓮の花として飛び出してくださる(※)。そういう身をいただいている。皆さんが忘れている時も、ズーッと阿弥陀様の願いはかかり続けている。絶対逃さんぞという摂取不捨のお光が届いている。私が気がつかないだけなんです。たまーに気がついた時、目にもの見せられた時だけ喜びますが、それもすぐに忘れていく。それが私の自性。だから喜ぶ時にしっかり喜びましょう。お念仏する時には、しっかりお念仏しましょう、と申し上げてるわけです。今喜ばなかったら、いつ喜ぶんですかと。南無阿弥陀仏 (華光誌73-1号より)

(※=「またいはく、妄念はもとより凡夫の地体(じたい=本来の姿)なり。妄念のほかに別に心はなきなり。(中略) 妄念のうちより申しいだしたる念仏は、濁りに染(し)まぬ蓮のごとくにて、決定往生疑いあるべからず。」 『横川法語』)

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