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同行・外護の善知識

 新華光会館の建築にご尽力くださった同人の葬儀に出席するために、また広島に向かうことになった。

Img_8430 ところが、また大雪でもある。京都も、先週よりも雪は降っていて、この後、強まるとの予報だ。近鉄も、新幹線も、かなり遅れてはいるが、運休していなかった。とにかく来た列車の自由席に乗った。あまり雪に縁のない、新大阪あたりでも、この様子である。徐行運転が続き大幅に遅れて、車内もかなり混雑していた。それでも、早めに出発しので、なんとか開始Img_8431時間前に到着したが、広島はまったく雪がなかいのが、不思議な感じだ。

 元気なうちに、平生に迷いのお葬式はすませられ、もうお別れもすんでいるのだが、そのご恩徳の一端を皆さんにも知ってもらいたいと、ここに記すことにした。

 亡くなったMさん自身は、当初は、熱心な聞法者ではなかった。しかし、奥様が、アメリカの同人のK一族の一員で、ご兄弟全員が、皆さん華光同人、また広島支部の創立にご尽力くださった方でもある。そのご縁もあって、徐々に、聞法にご精進なさり、晩年になって信楽開発されたのである。その後、ご自宅で家庭法座を持ってくださったり、華光会館の管理に力添いをくださっていた。それが、阪神大震災の時に、会館が傾くなどの被害を受けた時のことである。旧会館は、建築時に、資金がなかったこともあり、古木材で、その後、建て増しや補強などもしていたが、もともと小学校の古い校舎なので、2階建て建物は、瓦葺きで屋根も大きく重いのだ。

 一級建築士でもあるMさんに、お願いして傾き具合などを診断してもらったら、今度、このような地震あれば、危ないとのことで、総会で決議の結果、再建が決まった。もちろん、いつかは再建せねばならないと思っていたが、地震をきっかけに、皆さんの意識も変わったのだった。

 その後、Mさんは、法座の度に、会館を見て回っては、設計プラントの下絵を、何度も書いてくださり、いろいろと提案してくださった。再建が本決まりになったところで、息子さんが後を継いで、設計・監理の任についてくださったが、Mさんがおられなかったら、新会館の再建も、どうなっていたのか、わからない。そして、再建がなった後も、会館にお出でになる度に、あちこちを点検して回っては、立派に出来上がったことをご報告をしてくださっていたのである。それは、まるで、わが子をいとおしむかのような態度であった。 

 そう考えると、こうしていま、華光会館の道場で、同人が一堂に会して、念仏讃嘆をさせていただけるのも、このような先輩同人の並々ならぬご尽力と、「仏法廣まれ」の熱情のおかげなのである。

 しかし、それをどれだけ分かり、また知り喜んで、聞法しているだろうか。たとえは、ぼくにしても、50年以上前の華光会館を創建する時のご苦労は話でしかしならい。それでも、その後の借金返済の苦労や、借地から境内地を購入する時の、同人各位のご尽力、さらには、新会館の再建のために、皆さんのご喜捨やご尽力があったことは、身にしめて感じさせてもらった。

 その再建からも、もう18年の歳月がたっているのだ。当然、いまここに集う人たちの半数以上が、その後、ご縁が出来た人達なのだから、高齢になられ、会館にお出でになれなくなったMさんをご存じの方は、広島以外では少なくなっているのだ。

 華光会館には、どこにも芳名録のようなものは掲示されていないが、実に多くの同人のお力なければ、私の聞法の場が造られたことはなかったのである。

 ともすれば、善知識とは、直接、一念帰命の大事を教示くださる教授の善知識にしか目がいかないが、実はそれだけではない。共に、叱咤激励しあいながら、聞法する、同行の善知識もおられば、さらには、法を聴くために外から護ってくださったり、聞法の条件を整えてくださる、外護(げご)の善知識の存在も欠かせないのである。

 ただ、華光同人の心の故郷である念仏精舎の設計にご尽力くださった方がおられたという、当たり間の事実を知ってもらいたったのである。弔電も、父の名前でうったが、その肩書も、華光会館「館主」の肩書とした。

 Mさんは、階段の設計に関しては、たいへん得意とされていたということを、このたび人伝えに聴かせていただいた。どうか、皆さんも、会館にお出でになった方は、その思いで階段を踏みしめて、道場にお入りください。南無阿弥陀仏

 

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