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2014年2月の16件の記事

一週間

   1週間、ブログが停滞していた。

 いろいろと立て込んできて、ネタはあるのに、時間がなかったのである。

 週末は、大学を退官される某先生の慰労(というよりぼくがうけた?)で飲んだり、大学で記念講演(法話?)に出席。京都支部法座でも、新しい参加者があったりで、座談会のやりとりなどでも感じることや、刺激もさまざまいただいた。

 仕事もいろいろ。あいかわらず、今週も、代表交代の雑務が付いて回ってきて、もろもろの手続きがあったが、ゴチャゴチャと小さなこと。主には、「こども聖典」の最終校で、これも月曜日にに無事終了して、3月1週目には、『こども聖典』が完成してくる運びだ。でも、終わったと同時に、次の華光誌の編集が始まって、たったいま、誌上法話を仕上げて、K先生に送信したところ。

 明日から、「寒中仏の子ども大会」も始まるので、その準備や打ち合わせもある。大人の集まりならいいが、子どもを預かるので、やはり安全面からも準備をしっかりしてほしい。昨年の教訓があるので、ちょっと心配な部分もあったりした。今回は、k先生のお寺で教えてもらった、キャンドル造りを行う。造ったキャンドルで、燈火の夕べ(キャンドル・サービス)も行う予定で、感話も担当。他に、気付きやからだを使ったワークも担当。自画像のワークやけんかみこしのワークなどを計画しているので、今日、BGMとなる和太鼓の演奏を入手した。天気がよければ、公園で五感を使ったワークに切り換えてもいいと思っている。

 寒中子ども大会中に、5月の継職法要の会議も予定。中味について、先生方にお願いしたりと、こちらも並行した作業が続く。

 3月は、「寒中仏の子ども大会」と、「講習会」の担当と、大きな行事がつづき、高山や熊本への出張法座もはいる。その合間に、華光誌があって、さらには法要の準備があるので、ウカウカしてはいられない。

 今日みたいに、グッと集中できれば、自分自身も心地よい。とにかく、いい法座になることを願っているので、皆さんのご協力をお願いします。

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『BUDDHA2 手塚治虫のブッダ~終りなき旅~』

  東映アニメーションが総力(?)をあげて、手塚治虫の大作アニメ『ブッダ』を映画化する三部作の第2弾にあたる、『BUDDHA2 手塚治虫のブッダ~終わりなき旅~』 を観た。

 で、結果として、たいへん失望した作品だった。

 ぼくの映画批評は、辛口ではない。自分の感性など、それほど頼りにならないと思っているし、自分がよしと思えないだけで、たとえば専門家の異なった角度からみるといいものもある。だから、よく映画好きなのに、「辛口」と評して、酷評しかしないブログなどを見かけると、そんなに嫌ものをなぜ時間をかけるのが理解できないのだ。時間も、お金もかけて、大好きな映画をみるのである。もちろん、ダメな映画や嫌いものもある。しかし、減点方式ではなく、加点方式で評価することが多いし、自分がよいと思えなったところを評価している批評を読むと、感心したりするのだ。

  でも、心底ダメだなー、金返せよ、と思うものもたまにはある。(今年は、早くも2本目だ)。

 簡単なあらすじだが、原理的な苦行主義(肉体を責め抜いた先に、精神の救済があると説く)者である片目のデーパと、未来を予見する力を持った少年と共に、過酷な苦行を実践するシッダールタと、そのシャカ国を憎み、責め滅ぼすコーサラ国のルリ王子とのエピソードが中心だ。結局、その苦行を捨て中道を歩むことを決意したシッダールタは、いのちの限りない連鎖に目覚め、過去にもとらわれることないと悟りにいたる。一方、過去にとらわれて、釈尊の殺害まではかり、他者を傷つけていくルリ王子。彼もまた自らが傷つき、もっとも苦悩するものであることを、深い慈しみで理解することを通して、真実に目覚めたブッダになったところで、第3弾へとつながってく。

 もちろん、これは、あくまでも「手塚治虫」のブッダなのである。史実かどうとか、仏伝がどうとかという話ではない。もし、仏伝を知りたいのなら、最初から見に行かなくていい。その意味では、第1弾は、まだ釈尊だけの物語ではなかったし、釈尊もまだ悩めるシッダールタ時代だったので、架空の人物とのエピソードもそれなりに面白かったなら、それはそれで問題はなかった。

 しかし、今回は、最初からひっかかり連発である。

 まず本筋と違う小さな点を述べたなら、インドの気候や国土の描き方に、違和感があった。シルクロードのような灼熱の砂漠を旅したり、グランドキャニオンのような断崖の谷があったりで、実際の北インドの風景とはまったく異なる。それに、農民の家も、まるで日本のあばら家のような木造建築で、これまた、たとえばいまのスジャータ村の家々もとずいぶん異なるものだ。釈尊が、デーパと共に、苦行する苦行林も、断崖絶壁の場所ではない。インドの建物や風景にも専門家の監修がクレジットされていたが、こんなディテール無視して、いくらドラマテックに演出したとしても、子どもだましのようで、ほくには違和感があった。

 それにだ。釈尊の悟りに導くきっかけになる、予知能力をもった少年が示したことは、自分の死期を予言し、飢えた狼に与えることで、釈尊に、すべての命の連鎖、つながりを自然の理として目覚めさるという、ほんとうにお粗末極まりないのである。こんなものが、釈尊のさとり(たとえば、十二因縁や四諦八正道)と一致すると、理解しているのでだろうか。それで、ただ単に、今日の通俗的な仏教の似せた思想に迎合するだけのものである。

 その上で、いちばん引っかかったのが、肝心要の「成道」の場面がないのである。つまり、真の意味での、ブッダ、目覚めた人に成らないのでは、お話にならない。映画では、苦行を捨て、お粥の供養をうけたシッダールタが、釈迦族を滅ぼしてルリ王を恨む男に、ルリ王こそ、悩み苦しむ身であることを説くのであるが、不思議なことに、そのすばらしい内容を、シッダールタ自身は、無自覚のないままに述べてその違和感に驚いている。すると、天にブラフマン(梵天)があらわれ、「お前はブッダになった」と印可の御告げをもらうのである。これが、映画では、釈尊の目覚めの場面となっている。

 梵天の勧請は、成道後の大切な逸話のひとつで、釈尊が、伝道を決意するきっかけになるものだ。しかし、それはあくまても、悟った内容があまりにも深遠で、煩悩具足の身では理解できないであろうから、このまま涅槃に入ってしまうとされた釈尊に対して、梵天が、法輪を転ことをうながれるのである。自内証の法門といわれるように、釈尊の悟りは、十二因縁を自らが目覚められたのであって、それを外からの権威で印可されるものではないのである。もし、このように解釈されたならば、それは、ブッダ(目覚めた人)とはいえないし、もはや仏教ではない。監修のひろさちや氏の仏教理解のデタラメさ、底が知れされる場面だ。

 見終わり、もしやこればどこかの新興宗教教団(S学会か、R会か、まさか○○科学?)が造ったものかと疑って、クレジットを眺めていた。でも、そんな失礼なことを思ってはいけなかった。「ひろさちや」氏の名前が監修でてきて、さらに推薦は、「全日本仏教会」と、(さすがに浄土真宗はなかったなー。)、伝統的な宗派や教団が名を連ねていたのだ。

 ああ、結局、こんな駄作を造っても、宗派への前売りチケットが確保できるわけである。ちょっとネットで調べただけでも、日蓮宗のお寺が、「1800円のチケットが、特別前売り1000円」と、コマーシャルしていた。やれやれ。

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成長力を信じる

 いわゆる「意志療法」の創始者で、オットー・ランクは、クライエント中心療法のカール・ロジャーズの先駆者として、その理論の道を開いた理論家・臨床家としての正しく評価されるべき人物だといわれています。ジャイムス・リーバーマンによると、ロジャーズ同様に、ランクもまた、

一人一人の人間の持つ価値を深く信じ、クライエントには、四苦八苦しながらでも自分の道を前に向かって進んでいく力があるのだというとこを、深く信じていたのです。

というのです。この場合の四苦八苦は、いわゆる仏教本来の用法ではなく、「もがき苦しみながら」という通俗的な意味なのかもしれませんが、それはともかく、どんな人にも、その存在価値があることを深く信じ、そして、どんなにもがき苦しみながらであっても、自分の道を前に進んでいくという成長力を、また深く信じるというのです。

 クライエントが持っている成長「力」という「力」を信じる。これは、言うは易し、行うは難しの深い言葉です。

 いまは治療にしても、教育にしても、また宗教にしても、それはカウンセラー(もしくは医者や先生、宗教家など)にしろ、クライエント(もしくは患者、生徒、信者など)にしても、対症療法であっても、即効的に、目に見える効果を求めています。そして、目先の結果だけで極端に評価されるという風潮があります。だから、互いにすぐにあらわれる成果を求めている。そのためには、専門家の専門的な指示やアドバイスこそが、いちばん大切になってきます。

 しかし、成長力を信じるということは、クライエントを信じて待つということなので、専門家による問題解決のための専門的な指示やアドバスイ、解釈で、速攻的な解決をするのではなく、クライエント自身が持っている問題に立ち向かっていく力を信じ、促進する働きだといっていいのでしょう。たがら、苦悩するクライエントの力を信じて、寄り添っていくということになるのでしょう。

 成長力を、角度を変えて表現したら、悩む力となるような気もします。実は、「力」がないと、どう悩んだいいのか、その悩み方もわからないものです。しかし、カウンセラーとの関係において、ほんとうに受容的で、安心の場があるのなら、どれだけ七転八倒し悩み苦しみながらであっても、自分の道を前に向かって進んでいける、その「権利」が尊重されていくのだという風にも読めるな、とぼくには思えました。

 おかげて、気付きのちょっとしたヒントになった気がします。

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東海支部法座in刈谷

   広島から京都で途中下車して、土曜日の輪読法座をすませて、日曜日は、東海支部法座で、刈谷に向かう。このあたりは、もう三河地方になるのだろう。雪の心配も少ししたが、久しぶりに好天となった。だが、風は強い。在来線に遅れがでるほどの強風だ。

 最近の東海にしては、参詣者は少なめ。法話は、ここでも、親鸞聖人のご生涯に添いながら、その「常の仰せ」をたずねていったが、いろいろと話題も伸びて、かなり長めの2席のご法話となったので、分級座談会の時間は少なめだった。

 聖人のご生涯は、1)幼少期から、2)9歳で無常の理から出家し、20年の比叡山でのご修行時代。そして、3)法然聖人との出会いの吉水時代、さらに、4)弾圧によるご流罪の越後時代。その後、5)ご家族で関東に移られたご布教時代。この時代には主著である『教行信証』も顕されているが、主には布教伝道時代が20年ほど続き、その後、6)京都に戻られて、著述期と晩年期を迎えられるのである。居住の地域によって、それぞれ活動がはっきりわかれているのが、特色的だ。

 その中でも、私に伝わってきた真実(浄土真宗)ということを考えたとき、やはり法然聖人との出会いと、ご流罪による「非僧非俗」の宣言の意味は深い。もちろん、それを聖人の胸に留めないで、民衆に広く布教され、それを著述してくださったおかげて、後々のものも幸せをするのではあるが、それでも、法然さまとの出会いによって、聖人自身の他力本願に目覚められ、またご流罪によってその根機を身を持って示してくださることがなければ、今日の浄土真宗はなかったといっていい。

 しかし、法然聖人との出会いにしても、平坦な道でなかったことは、恵信尼さまのお手紙からも窺える。法然聖人の主著は、『選擇本願念仏集』であるが、選擇とは、法蔵菩薩が、選び取りと、選び捨てしてくださった本願(選擇本願)であり、その本願に順じた念仏行なのことである。しかし、親鸞さまの上においても、六角堂の百日間の参籠に代表される、廃立の選び取り、選び捨ての葛藤や苦悩があったのだ。法然聖人のもとに直参された後も、また百日間も続く聴聞の日々も、これまでの、聖道・自力の行を捨てて、本願に帰する、いわば他力の念仏行一つを選ぶためのものである。法然さまのお示しは、専修念仏。つまり、聖道の行や念仏、いわゆる諸行を併用した行ならば、「専修」にはならない。それは20年にわたり真摯に打ち込んだ、仏教の正統であった行を捨てることでり、これまでの自分の行いの全否定であるのだ。しかし、聖人は一歩踏み出してくださった。この世の幸せではてい。すべて「生死出づべき道」の真の解決を求められたからである。聖人のそ踏み出しにこそ、阿弥陀さまの大悲のお働きがかかっていたのであった。

 翻って、私達は、あれもこれも欲張って取り入れ、この頭で理解しようと躍起になっている。それでは、雑行も、雑種も出来ない私は、何を捨てさせてもらうのか。この身でブラあたらせていただく関門でしる。

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輪読法座~許されて聴く~

 華光誌輪読法座。人数は多くなかったが、その分、じっくり、しんみりと読ませていただいた。発言も、誰かを指名することもなく、ポツポツでも、全員が味わいを語ってくださった。ただ、みんなと声に出して読むだけでも、ひとりで黙読しているのは、まったく違うのである。最後のところまでくると、涙と共に読んでくださって、それもまた有り難かった。(最終章だけ抜き出します)。

    今、ここで喜ぶ教え
 冒頭に(新潟の)I生のお話を申しました。私は本当に様々な方のお育てを受け、懇ろなご教示と、噛み砕いたお話をいただいたおかげで、今、お念仏を喜ぶ身にさせていただいております。誰一人欠けても、私は仏法聞くことができなかったのです。皆さんも同じです。噛み砕き、噛み砕き言葉にし、一つ一つを丁寧に、手を変え品を変え、先生やお同行となり、怒られたり、優しくされたり、なだめられ、ほめられしながらお育てをいただいてきたのです。
 今、皆さんは、どんなお気持ちご聴聞されているのか知りません。しかし間違いなく、大きなご恩徳の中、「南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」の中にいるという、その事実を聞いてください。これは今ここでしかないんですよ。自分の心がどうであろうが関係ない。私は妄念妄想だらけでも、この南無阿弥陀仏だけは、何事にも汚されない、蓮の花として飛び出してくださる(※)。そういう身をいただいている。皆さんが忘れている時も、ズーッと阿弥陀様の願いはかかり続けている。絶対逃さんぞという摂取不捨のお光が届いている。私が気がつかないだけなんです。たまーに気がついた時、目にもの見せられた時だけ喜びますが、それもすぐに忘れていく。それが私の自性。だから喜ぶ時にしっかり喜びましょう。お念仏する時には、しっかりお念仏しましょう、と申し上げてるわけです。今喜ばなかったら、いつ喜ぶんですかと。南無阿弥陀仏 (華光誌73-1号より)

(※=「またいはく、妄念はもとより凡夫の地体(じたい=本来の姿)なり。妄念のほかに別に心はなきなり。(中略) 妄念のうちより申しいだしたる念仏は、濁りに染(し)まぬ蓮のごとくにて、決定往生疑いあるべからず。」 『横川法語』)

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「広島」それとも「広島風」?

 さて、お導師さまには、ご迷惑なことだろうが、最前列に座り、一緒に勤行させてもらった。通路を隔てた横には、喪主が座っておられる。これも衣のお徳である。本派の勤行だ。いろいろな場所で、葬儀に参列をさせていただくが、その地方、地方で、多少の地域性が出でくるのを知っている。さすがに、広島は、真宗どころだ。位牌を使われず、勤行も正規のものである。

 出棺勤行と、葬場勤行は30分ほどで終わった。少々尺が短いないと思っていたら、ここからが「広島風」?というのか、葬儀に引き続いて、「野辺の送り」(と、アナウンスがあったと思うが)の勤行が始まり、『讃仏偈』、「其仏本願力」の文のあとで、わざわざ「御文章」拝読の場所に移動され、「皆様、頭を垂れてご拝聴ください」とのアナウンスまであって、出棺前に『白骨の御文章』が拝読された。これは、初めての経験だったが、広島の葬儀では一般的なのだろうか。

 法要は法要で、弔電の披露や喪主のご挨拶も導師退席後に、次のセレモニーとして、流れの中で行われるので、すっきりとしている。お別れのセレモニーも、故人と、親族の皆様方との深い結びつき、一族から慕われている温かさが、ヒシヒシと感じさせられるもので、深く心に残った。

 本筋とは別だが、いちばん関心したのは、「お清めの塩」がついてこなかったことだ。ケガレの思想は、ほんらいの仏教とは無関係で、特に、浄土真宗では無用なことだが、他の地方では、かなりついてくる。位牌といい、清めの塩といい、さすがに、広島だと感心させられたがた、きっと、これもお寺さん方の長年のご苦労があったのだろう。

 帰路は、新幹線の駅ビルで、参列のM姉妹と、広島風お好み焼きを食べた。

 長い公私にわたる広島とのおつきあいがあるに、広島でお好み焼きを食べるのは、これがたった3回目だ。そのうち、1度は「徳川」の元店長と食べたが、あれは関西風だった。「徳川」は、広島や山口では知名度が高いが、関東や関西にはないローカルな話題だ。

Img_8432  「広島風」は、昔、やはり広島駅ビルのお店のカンウターで食べたのが初めで、15年ほど前の話だ。それ以外は、家でも一度も食べたことはなかったので、今回が2度目のご縁となった。聞き覚えのある、「みっちゃん」にはいって、ネギをトッピングした。しかし、鉄板ではなく、お皿でだされて、場所の雰囲気も観光客向けのお店感も強くて、うーん、まあまあというところかなー。近くには、広島風」と大きく銘打っている店もあったが、ほんとうは「広島お好み」で、「風」(ふう)はいないんじゃないのかという話題になった。

 それにしても、この○○風は、たとえば京料理ではなく、京風料理、とするだけで、かなり幅広くなって、「風」なのでお許しください、といった大雑把にとらえることができる、なかなか便利な言葉である。

 うーん、そうすると、今日の浄土真宗の大半は、浄土真宗風じゃないのかと、ちょっとバカな、もしかすると真っ当な疑問が起こった来た。信一念の廃立が抜けているなら、浄土真宗テイストであっても、やっぱり「浄土真宗風」にすぎないのではないかと。まあ、そう感じるのは、本家を自負しているからだが、誰もが自己が正しい、本流と思っているのだから、ちょっとややこしくなるなーと。

 親鸞様、ほんとうにゴメンなさい。南無阿弥陀仏

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同行・外護の善知識

 新華光会館の建築にご尽力くださった同人の葬儀に出席するために、また広島に向かうことになった。

Img_8430 ところが、また大雪でもある。京都も、先週よりも雪は降っていて、この後、強まるとの予報だ。近鉄も、新幹線も、かなり遅れてはいるが、運休していなかった。とにかく来た列車の自由席に乗った。あまり雪に縁のない、新大阪あたりでも、この様子である。徐行運転が続き大幅に遅れて、車内もかなり混雑していた。それでも、早めに出発しので、なんとか開始Img_8431時間前に到着したが、広島はまったく雪がなかいのが、不思議な感じだ。

 元気なうちに、平生に迷いのお葬式はすませられ、もうお別れもすんでいるのだが、そのご恩徳の一端を皆さんにも知ってもらいたいと、ここに記すことにした。

 亡くなったMさん自身は、当初は、熱心な聞法者ではなかった。しかし、奥様が、アメリカの同人のK一族の一員で、ご兄弟全員が、皆さん華光同人、また広島支部の創立にご尽力くださった方でもある。そのご縁もあって、徐々に、聞法にご精進なさり、晩年になって信楽開発されたのである。その後、ご自宅で家庭法座を持ってくださったり、華光会館の管理に力添いをくださっていた。それが、阪神大震災の時に、会館が傾くなどの被害を受けた時のことである。旧会館は、建築時に、資金がなかったこともあり、古木材で、その後、建て増しや補強などもしていたが、もともと小学校の古い校舎なので、2階建て建物は、瓦葺きで屋根も大きく重いのだ。

 一級建築士でもあるMさんに、お願いして傾き具合などを診断してもらったら、今度、このような地震あれば、危ないとのことで、総会で決議の結果、再建が決まった。もちろん、いつかは再建せねばならないと思っていたが、地震をきっかけに、皆さんの意識も変わったのだった。

 その後、Mさんは、法座の度に、会館を見て回っては、設計プラントの下絵を、何度も書いてくださり、いろいろと提案してくださった。再建が本決まりになったところで、息子さんが後を継いで、設計・監理の任についてくださったが、Mさんがおられなかったら、新会館の再建も、どうなっていたのか、わからない。そして、再建がなった後も、会館にお出でになる度に、あちこちを点検して回っては、立派に出来上がったことをご報告をしてくださっていたのである。それは、まるで、わが子をいとおしむかのような態度であった。 

 そう考えると、こうしていま、華光会館の道場で、同人が一堂に会して、念仏讃嘆をさせていただけるのも、このような先輩同人の並々ならぬご尽力と、「仏法廣まれ」の熱情のおかげなのである。

 しかし、それをどれだけ分かり、また知り喜んで、聞法しているだろうか。たとえは、ぼくにしても、50年以上前の華光会館を創建する時のご苦労は話でしかしならい。それでも、その後の借金返済の苦労や、借地から境内地を購入する時の、同人各位のご尽力、さらには、新会館の再建のために、皆さんのご喜捨やご尽力があったことは、身にしめて感じさせてもらった。

 その再建からも、もう18年の歳月がたっているのだ。当然、いまここに集う人たちの半数以上が、その後、ご縁が出来た人達なのだから、高齢になられ、会館にお出でになれなくなったMさんをご存じの方は、広島以外では少なくなっているのだ。

 華光会館には、どこにも芳名録のようなものは掲示されていないが、実に多くの同人のお力なければ、私の聞法の場が造られたことはなかったのである。

 ともすれば、善知識とは、直接、一念帰命の大事を教示くださる教授の善知識にしか目がいかないが、実はそれだけではない。共に、叱咤激励しあいながら、聞法する、同行の善知識もおられば、さらには、法を聴くために外から護ってくださったり、聞法の条件を整えてくださる、外護(げご)の善知識の存在も欠かせないのである。

 ただ、華光同人の心の故郷である念仏精舎の設計にご尽力くださった方がおられたという、当たり間の事実を知ってもらいたったのである。弔電も、父の名前でうったが、その肩書も、華光会館「館主」の肩書とした。

 Mさんは、階段の設計に関しては、たいへん得意とされていたということを、このたび人伝えに聴かせていただいた。どうか、皆さんも、会館にお出でになった方は、その思いで階段を踏みしめて、道場にお入りください。南無阿弥陀仏

 

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広島法座で味わったこと

 幸い日曜日は、西日本では雪は一段落した。それでも、岡山あたりから、かなり広い範囲で雪が残っている。このあたりでは、珍しいものだ。

 広島支部法座。天候のせいか、出足しは悪かったが、徐々に増えて、常連以外の参加者もあって、そこそこのお参りとなる。

 座談会も、ある参加者の発言から、後半になってかなり盛り上がった。

 それにしても、この娑婆の人生は思いどおりにならないことばかりだ。

 実際、理不尽な、不幸を背負いながら、困難を生きていかねなばならい人もおられる。そんな苦悩する人を前に、念仏者の「私」は何をなせるのか。もしその方のの苦しみや悩みが、少しでもやわらぐのなら、祈祷やまじないをお勧めすることはどうかという問いがある。

 確かに、猛烈な苦痛を伴う苦しみや悩みに苛まれている人は、後生の解決よりも、その目の前の痛みや苦しみを除くことを、最優先になる。そんな人に、いくら「火の粉ではなく、火の元の解決、今生ではなく、後生の一大事だ」と、正論を言ったところで、たぶん、その人の心にお念仏を届くことは、なかなか難しいことだろう。

 その意味では、いくら真宗念仏を喜んだといっても、現実に苦悩する人を前には、私のなせることはまったく無力なのかもしれない。とれほどいとおしい、不憫と思っていても、その慈悲には限りがあるのだ。

 たとえば、相手のこの世で求めている幸せの助力になるならば、お金に困っている人には、お金を貸したり、仕事をあっせんすることが解決につながるかもしれない。不治の病で苦しむと人には、それにふさわしい治療法や病院を紹介すれば、喜ばれるだろう。夫婦不和や家庭に悩みがあるのなら、親身に相談にのり、適切なアドバイスをすれば、うまく解決に進むかもしれない。肉体的な痛みがあるなら、それが除かれることで安心をえるように、心の痛みや苦しみもしても、同じことがいえるのだ。

 しかし、真宗念仏の教えは、そのような目先の解決に、お念仏を利用しない道を示してくださった。阿弥陀様のご本願は、この世の現実に目を背けて、後生に甘い幻想を抱く教えではないのである。だから、真宗はお慈悲の教えで、どこか温かい、甘い匂いがするように思えるが、実は、とても厳しい教えではないだろうか。

 親鸞聖人ですら、越後から関東に移られる途中、佐貫というところで、飢饉で多くの人々が目の前で餓死する現実を前に、浄土三部経を千回読誦し、なんとかその功徳を回向しようとされたことがある。しかし、その途中で、自信教人信こそ仏恩に報ずる道あることに気付かれて、その自力の試みを中止されている。他力念仏以外に道はないことに、ふたたび気付かれたのであるが、これは後々にあって、夢にまであらわれて、自力の執心の根深さに驚かれることになるのである。

 苦悩の有情を見捨てることができずに、立ち上がってくださった阿弥陀様は、けっして、私の欲望を満たすための道具でもなければ、現実逃避で、幻想を頂く教えでもない。

 この凡夫の私の身で、現実を生きるということはやさしいことではないが、このなま身ひとつで、わが業と向き合って生きよというお示しなのである。いくら仏壇にまいって、お念仏にはげっても、その厳しい状況はかわることはない。当然、そう生きることは平坦な道ではない。

 しかしである。泣きながら進む道は、それをわがこととして、共に泣きながら歩んでくださっていた阿弥陀様に出会わせていただく道でもあった。「待つ」というのは、他力のお心。ずっと、待ってくださっていた阿弥陀様に出会わせいただく道でもある。そのことを、お示しいただける法の仲間に出会ったことは、まさに遠い遠い宿縁のなせるわざであって、そのそこには、ずっと「待ち」続けてくださっている阿弥陀様がおられるのである。

 結局、苦悩する人を前に、私の凡夫の限界、無力さを知らされるばかりであると共に、しかし、その人にも、ずっと阿弥陀様が待ってくださり、願われている尊い人であることに気付かれるのである。だからこそ、勿体なくも、阿弥陀様のお心そのものである「南無阿弥陀仏」のお勧めさせていただけるのではないろうか。南無阿弥陀仏 

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誕生日

   定期診断で、父を病院に連れて行く。

 小雪が舞っている。運転席の横で、母が言った。

 「ちょうどいまごろ昼2時やったな。こんな雪のチラララ舞う寒い日だったわー」。

 52年前の今日、その時間に、ぼくは、母に産んでもらって、この世の生を受けた。

 ところである。ぼくにとって人生でもっとも大切な日であるにもかかわらず、その日のことを、何一つ覚えないない。いやその日だけでなはい。その後の何年間かは、どれだけ両親を初め、回りの人達のお世話になり、ご迷惑をかけて来たにもかかわず、まったくその記憶がないのである。だから、いま、自分の力で頑張っているのだ。だれにも迷惑をかけずに、一人の力で生きてきただと、うぬぼれているのである。

 しかし、親から「あんたの生まれた時は、寒かったなー」と言われたら、ただそのまま疑うことなく、聴かせていただくことはできる。ぼくが体験しているにもかかわず、一切記憶にないのだか、聴くだけである。しかし、そう疑いなく聴かせていただけるのは、それが親の言葉だからである。そこに、疑うも、信じるもない。ただ親の言うことを、「ああ、そうか」と、お聴かせいただくだけなのである。同時に、親のご苦労、ご恩徳を(ほんの一旦かもしれないが)に、心を寄せさていただけるように育ててもいただいたのである。

 子どもたちから「おめでとう」とのメッセージと、少し手伝ったケーキや、予期していなかたっプレゼントも、もらっえてうれしかった。

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親鸞聖人の三つのご持言とご遺言⑶

三、聖人のつねの仰せには、「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、親鸞一人がためなりけり。さればそれほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめたちける本願のかたじけなさよ。」  『歎異抄』後序)

  一、二番の「ご持言」と比べて、『歎異抄』の三番目の「つねの仰せ」は、とても有名なものだ。しかも、浄土真宗の信心の相の核心ともいっていい部分で、しばし、皆さんの”安心調べ”となる箇所である。

 単なる「願い」ではない。  阿弥陀様の五劫のご思惟の末に、立ち上がった本願というのである。 それを、「よくよく」といわれるのだから、心を凝らして引き寄せて味わうなら、すべて「親鸞一人」のためなのであると。

 ご本願は十方衆生によびかけておられる。それで、みんなを救うご本願、阿弥陀様はお慈悲な御方で、私もその中の一人として救われていくというところで、喜んでおられる方も多い。そんな方に、しばしばお尋ねるのが、この「親鸞一人」という世界ある。「一人」といところが、ことさら尊いではないか。阿弥陀様のご苦労は、十方衆生済度ではない。この「私一人」を救わんがためだったとほんとうに喜びるのか、どうかである。

 しかも、そこで立ち上がってきた私は、それほどの業(そくばくの業とも言われるが)をもっている身だというのである。ご法を喜んでいる方(自称だけれど)でも、人の善悪にとらわれて、わが身が宿業の身であることがお留守になっている人を、よく見かける(とくに、別の会で、善や行を積むことを勧められていた方など)。親鸞様は、けっして表面的な行いでの善し悪しを語っておられるのではない。それでは、道徳や勧善懲悪の宗教となんらかわりはない。わが心がよいから、よい行いができるのでも、相手の心が悪いから、悪人だといのではない。すべては、「さるべき業縁の催さば、いかなるふるまいもすべ」き身なのであって、それほどの宿業をもっているわが身だというのである。

 なんという深い内省であろうか。しかも、宿業の身であるという深い宿業観は、同時に、そんな宿業の身をもった私を、けっして目を逸らされることなく凝視しつづけ、そんな深い業をお目当てに立ち上がられずにおれなかったお方こそ、大悲のお心もった阿弥陀如来様である。その大悲観がなければ、凡夫の私が、わが身の業を引き受けることなどできない。だからこそ、けっして浮かび上がることのない宿業をもった私を、助けんがために立ち上がってくださった阿弥陀様のご本願こそが、「私一人」を救わんがためのものであったと、親鸞様、常々喜んでおられたというのである。つまり、機の深信と言っていい宿業観と、法の深信と言っていい大悲観は、「私一人」のこの身のところでしか出会うことのないのである。

 「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、かりもん一人がためなりけり。さればそれほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめたちける本願のかたじけなさよ。」  

 「親鸞一人」が「私一人」と頷けるまで、わが心を引き破りき、ひき破って、お聞かせに預からせてもらわねばならない、大切な関門である。

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機法一体の南無阿弥陀仏

 立春というのに、この冬いちばんの寒波がやってきて、今夜も寒い。2月の夜の法座は、集まりが悪いものだが、今夜は、皆さん、いそいそとお参りくださって、ありがたかった。

 伝道研究会も、安心篇に入って、第2章の「六字釋」がおわり、今月から「機法一体」へ。皆さんも、なんとなく「六字釋」に触れ、少し慣れたところなのに、また新たな章へ。

 とくに、機法というと、よく聞き込んだ方でも、二種深信が浮かんできて、その機と法が一体だと理解されている方もけっこうおられる。「機」といわれると、反射的に、凡夫の本性の機、つまり性得の機(黒い心)、おめあての機、実機と捉えているからで、しばしばここで混乱されていくようだ。

 しかし、ここでの「機」は、南無の機(白い心)である。衆生の信心(機・南無)と、それを救うお働き(法・阿弥陀仏)とが、別々のものではなく、すべて南無阿弥陀仏による他力回向法のすばらしい特色であることを明らかにするものである。突き詰めると、六字は皆機であり、六字は、皆法であるというところまで展開されていくのである。

 今回は、詳細にはいっていく前の総論で、その特色を押さえてきかせてもらった。新たな章に入ったところなので、初参加の方もどうぞ。

 ただし、3月は、華光誌や講習会の都合があるので、お休みせてもらって、次は4月になります。

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節分

Img_8405 横浜からは会館にはもどらず、そのまま近鉄で伏見桃山に直行する。伏見のこのあたりは、カウンセリングやら、自力整体やらで、長く通っていたので、勝手が分かる。ちょっと小雨になってきて、荷物が、ちょっと厄介だ。

Img_8409 でも、ちょどうご一行も到着したところで、入り口でタクシーとすれ違う。
  残念ながら、予定していた姉が直前に欠席となったようだが、父が元気に来たので、安心する。

Img_8422_2  ところが、ぼくが予約で大チョンボをしていて、正直、焦ったが、どうにか間に合わせもらった。でも、このミスが、ちょっとあとまで引きずることになった。まあ、それはもうすImg_8421んだことだけど、、。

 さて、お店のしつらえも、節分の趣向だ。
  お料理も、季節に合わせもので、和を中心に、洋の折衷もあって、みんな満足してくれた。

 いよいよ明日からは立春だ。

Img_8423  でも、今日までが春の陽気。逆に、明日から、この冬いちばんのImg_8406寒波の予報で、10~15度も温度が下るところがあるという。

  まだ2月なのだから、寒くなって、平年並になるのだろう。

  料理も、お酒もおいしかったが、連日、御馳走と、飲むことが続いている。楽しいお酒で、結構だが、明日から2、3日は、久しぶりの休肝日にしようと、密かに誓うのであった。ぜったいに。

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横浜

Img_8335 東京法座がおわって、所用で、横浜の桜木町に向かう。何十年ぶりかなー。思いだせないほど、ご縁がない場所だ。当然、まったく土地勘がない。東京も、横浜も大都会で、どのルートを使うかずいぶん迷った。それならと、地元の同人に教えてもらうと、いちばん慣れた東京駅からのルートがImg_8367よいと分かって、迷わずに待ち合わせの桜木町にたどり着いた。いつものことだが、東京駅も、横浜駅も、夕方は人が多くて、人酔いしそうだ。

 先方のお仕事の関係で、しばらく待って、横浜駅に戻り、駅に直結してImg_8346いるそごう10階のイタリアンのお店へ。横浜といえば、中華と、単純に思っていたけれど、イルピノーロ レヴィータというイタリアンだった。正面にベイブリッジが見えている。結局、閉店ま、ビールを飲み、3人で赤ワインを何本かあけ、そこからまた景色のいいバーでカクテルと、今夜もよく飲んだ。連日、飲み会が続くのだか、不思議と元気だ。でもImg_8341、話すことに忙しくて、せっかく横浜まで来たのに、充分に夜景も楽しまず、皆さんお勧めの観覧車も分からないままに、ダウンしてしImg_8355まった。

 でも、横浜在住や出身者の同人も多いので、少しふれておかないとね。

 というわけで、翌日、みなとみらいを散策。駅を挟んで、宿泊したホテルの反対側Img_8349に、お勧めの観覧車も発見。ああ、なるほど、近くても反対側だたね。確かに、Yさんのブログでみたけれど、これは夜景もすごくきImg_8366れいだろうなと思いつつ、仕方ないので、昼間の眺望を楽しむことにした。いまのところ(まもなくあべのハルカスが営業するが)日本一の超高層ビル、浜ランドマークタワーへ。地上69階の展望階へ、日本一の超高速エレベーターで、あっという間に登った。残念ながら、天気がよすぎてImg_8363かすんでいる。この近くを職場にしている(いつも観てくれてありがとう!)Tさんお勧めの、富士山も、今日はかすみの中。いい天気なのにね。

 新幹線まで少し時間があったので、このあたりをブラブラしたが、Img_8382_2霞んでいても、春の陽気で、港からの風も穏やかで、ほんとうに心地よかった。汽車道を歩き、赤レンガと港を観て、赤いくつバスに乗って、新横浜から京都に帰った。時間の都合で、山下公園も、中華街にも、Img_8386また海上バスにも乗れずに残念。皆さん、お勧めの観覧車も、スルーでした。

  夕方には、今度は京都の伏見で、会食の予定があったので、華光会館にはもどらず、そのまま直行することにした。横浜でご馳走Img_8393、また伏見でご馳走をいただく、贅沢な日程。でも東京や横浜から、京都にもどると、やっぱりほっこりするのは、なぜ?

 Img_8402行き当たりばったりてしたが、とにかくご御馳走さまでした。

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東京法座~「恵信尼消息」雑感

  2月の東京支部法座は、4座のうち、2日目の昼座は「支部総会」で、法話はなく、信仰座談会のみ。その代わり、朝座は2席にわけて、長めに法話した。

 報恩講から味わっている「親鸞聖人の三つのご持言とご遺言」というテーマ。それに加えて、そこから派生して、明確な日時が示されている八十八歳の「聖人最後のお手紙」と、聖人のご臨終に立ち会われた末娘の覚信尼公が、その時のご様子を越後の恵信尼公に送られ、そのお返事である「恵信尼消息」(恵信尼さま八十二歳)のお手紙の二つを味わった。

 中でも、「恵信尼消息」は、大正時代に、本願寺の書庫から発見された恵信尼さまの真筆のお手紙で、越後の恵信尼公から京都の覚信尼公に送られたものだ。一昨年の越後の聞法旅行で、「ゑしんの里」で工夫された展示を見せてもらったが、親鸞聖人の若き日の姿や行実、また家族に関することなど、これでしか知り得ない貴重な資料。何よりも、この書状によって、親鸞聖人の歴史上での実在が確認されたという経緯もある大発見であった。

 しかも、ここでとりあげたお手紙は、聖人のご往生に際して、たとえば、あれだけ美辞麗句で飾るだけ飾られた『御伝抄』ですら、ご往生が何の奇瑞もなく静かな最後である(そのことはとても有りく感じるので、続編で)。ところが、この手紙によって、末娘の覚信尼公は、父(聖人)の臨終のありさまからご往生を不安に感じた様子が窺える。それに対する恵信尼さまのお返事では、生前にみた夢で、法然聖人が大勢至菩薩の化身、それに対して(聖人は伝えなかったが)、親鸞聖人を観音菩薩の化身であると確信して、それゆえに極楽往生は間違いないと述べておられる。それを言い出すと、親鸞聖人でさえ、法然聖人の臨終の奇瑞の様子を嬉々として和讃されているし、『選択集』の書写を許されたことを「決定往生の徴だ」と歓喜の涙を抑えて書かれているのだから、このあたりは、みな凡夫というか、人間的に微笑ましいともいえる。

 今日は、そんな余談の部分で、ちょっとした真宗の秘話(あと、善鸞大徳のその後をふれた、覚如上人の伝記(慕帰絵詞)など)にも触れたので、皆さん、日頃聞かない、聖人の身内の行実に、驚いて反応が大きかった。

 しかし、もちろん、ここで「恵信尼消息」取り上げた意図は違う。

 聖人が求められたのは、ひとえに「後世」の助からん縁であり、そのために比叡山を降りる、つまり聖道自力を捨てるまでの葛藤と、法然聖人との出会いで、専修念仏一行を選ばれたこと。それは、他力の本願をお伝えくださる、よき人法然聖人との出会いでもあって、生死出づべき道を一筋に求められるのだか、ここに聖人(真宗)の求道の要が述べられているともいえる。
 つまり、「源空(法然聖人のこと)があらんところへゆかんとおもはるべし」(執持鈔)と、後生は、共に弥陀の浄土へまいりましょう、という法然聖人のお示しを、100日間かけて聞き抜かれ、そして、ついに「上人のわたらせたまはんところには、人はいかにも申せ、たとひ悪道にわたらせたまふべしと申すとも、世々生々にも迷ひければこそありけめ、とまで思ひまいらする身なさば」という、心境になられたことが示されている。これは、『歎異抄』などにも符合するものだが、ここに親鸞聖人の腹の坐りがあり、臨終ではなく、この平生のよき人との出会いによって、往生は疑うべき身になられたことが示されているのである。

 このお手紙、またご法話で詳しく取り上げていく。

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東京支部法座~会場につくまでに~

Img_8307 2月の東京支部法座。

 気温が上がって、かなり温かい。例年この時期は、新幹線も雪の影響を受けることがあるが、今回は心配はない。月曜日までは春のような温かい日が続いて、その後、一転寒波になるとの予想だ。

 車窓に伊吹山が見える。昭和の初めImg_8312に、「1182」cmで、山岳地での世界最高積雪を記録した豪雪の山である。日本には、北海道や新潟、長野などなど、もっともっと豪雪の山がたくさんあるのに、滋賀県の、しかも標高が1300メートル級の山というのは、かなり意外だ。もっとも、このところの暖冬で、雪はかなり少ない。

Img_8321 青空の好天。しかし、かすみがかかって、世界遺産の富士山の風景もいまひとつ、ぼんやりしている。

 東京の会場までは、丸の内線で12~Img_83203分というところか。茗荷谷の駅からは、歩いて8分ぐらいかかるが、大半が広い公園を横切っていく道なので、歩くのには気持ちがよい

Img_8322 ふと見あげると、梅がチラホラ咲いている。まだチラホラだけれども、このところの温かさで、かなり開花が進むだろう。

 3日が節分、4日が立春。暦では春が近い。もらろん、今日のような温かい日ばかりではないだろうが、確実に春に訪れを感じることができる景色に、思わず立ち止まって1枚。Img_8323

 昼座がおわり、部屋の窓から夕日を眺める。

東京の空は、今日もただ青かったー
  東京の空の下は、男と女ー、、
 前野健太の歌の一節が口から出る。何でもない風景だが、でも、ちょっと切なくなるのはなぜ? 

 

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親鸞聖人の三つのご持言とご遺言(2)

 またつねに門徒に語りていはく、「信謗(しんぼう)共に因となりて、同じく往生浄土の縁を成ず。」  (『報恩講私記』覚如上人)

  2番目の「つねの仰せ」の御文は、あまり取り上げられることはないが、表現が多少異なる同じ内容の『教行信証』後序のお言葉は有名だ。ここからも、聖人が常に、近習の方に語っておられたことが窺える。ちなみに聖人ご自身のお言葉は、

「もしこの書を見聞せんもの、信順を因とし、疑謗を縁として、信楽を願力に彰し、妙果を安養に顕さんと。」 (『教行信証・化土巻』後序)

というご本典の結びの言葉で、もちろん、「この書」とは『教行信証』のことである。ここでは、信順を「因」、疑い謗ることを「縁」として、本願力の働きで信心を得て、往生浄土で最高のお悟りを得ようという内容である。

 信順が因になるのは当然のことであるが、「疑謗が縁」になるという意味は深い。それどころか、ここでは、「信謗(しんぼう)共に因」だとおっしゃり、共に浄土往生の得ようというのだから、さらに突っ込んだ表現となっている。

 もちろん、自身の求道の歩みを考えたとき、信順ばかりで進んできたわけではない。聞法の緒だけでなく、また歩みのなかでも無明の闇に覆われて、本願を謗り、疑ってきた。しかしながら、疑いがあるということは、本願の教えを我が身に聞こうとするから起こるのであって、もしそれを聞かなかったり、聞き逃してたり、常識的に「けっこうでした」(大方はこんな聞き方)と人ごとにしている限り、謗ることも、疑うことも問題にはなってこない。疑い謗るということは、信順と裏表で、それだけ本願が問題になっていることでもあるのだ。だからこそ、廻心とは、心を翻すことなのだから、疑謗が縁となっていくというお心にも通じるのではないか。

  しかし、これは単に自身の内面だけで完結させるだけではない。『歎異抄』第十二章には、

「この法をば信ずる衆生もあり、そしる衆生もあるべしと、仏説きおかせたまひたることなれば、われはすでに信じたてまつる。…」

とあるが、実際、聖人の時代に、他力念仏の教えを露骨に誹謗されている。時に、山伏弁円の逸話のように、聖人自身が命の危険、つまり迫害にも及んだこともあったのではないか。 

 第一、聖人自身が、時の権力によって、念仏停止の法難によって、越後にご流罪になっておられるのである。そのことについて、「信順を因とし、疑謗を縁として、信楽を願力に彰し、妙果を安養に顕さん」と書かれた同じ『化土巻』後序には、

「主上臣下、法に背き義に違し、忿りを成し怨みを結ぶ」

とまでの強い表現を使っておられるのである。それが、同時に、「信順を因とし、疑謗を縁として」とか、「信謗共に因となりて、同じく往生浄土の縁を成ず。」というのであるから、そのお心はなんと深いのであろうか。

 これは、一番目のお言葉の「非僧非俗」もそうだが、聖人の常の仰せは、無謀な権力による正法の弾圧べき怒りと、そして流罪の身となって立ち上がってきたわが身の真実、さらには弥陀の本願のかたじさなさが生み出されたお言葉ではないだろうか。

  「信謗(しんぼう)共に因となりて、同じく往生浄土の縁を成ず。」

まさに第十八願の唯除のおこころにも通じるもので、阿弥陀様のお心に触れなければ到底出て来ない、大悲のお言葉ではないだろうか。

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