親鸞聖人の三つのご持言とご遺言(2)
またつねに門徒に語りていはく、「信謗(しんぼう)共に因となりて、同じく往生浄土の縁を成ず。」 (『報恩講私記』覚如上人)
2番目の「つねの仰せ」の御文は、あまり取り上げられることはないが、表現が多少異なる同じ内容の『教行信証』後序のお言葉は有名だ。ここからも、聖人が常に、近習の方に語っておられたことが窺える。ちなみに聖人ご自身のお言葉は、
「もしこの書を見聞せんもの、信順を因とし、疑謗を縁として、信楽を願力に彰し、妙果を安養に顕さんと。」 (『教行信証・化土巻』後序)
というご本典の結びの言葉で、もちろん、「この書」とは『教行信証』のことである。ここでは、信順を「因」、疑い謗ることを「縁」として、本願力の働きで信心を得て、往生浄土で最高のお悟りを得ようという内容である。
信順が因になるのは当然のことであるが、「疑謗が縁」になるという意味は深い。それどころか、ここでは、「信謗(しんぼう)共に因」だとおっしゃり、共に浄土往生の得ようというのだから、さらに突っ込んだ表現となっている。
もちろん、自身の求道の歩みを考えたとき、信順ばかりで進んできたわけではない。聞法の緒だけでなく、また歩みのなかでも無明の闇に覆われて、本願を謗り、疑ってきた。しかしながら、疑いがあるということは、本願の教えを我が身に聞こうとするから起こるのであって、もしそれを聞かなかったり、聞き逃してたり、常識的に「けっこうでした」(大方はこんな聞き方)と人ごとにしている限り、謗ることも、疑うことも問題にはなってこない。疑い謗るということは、信順と裏表で、それだけ本願が問題になっていることでもあるのだ。だからこそ、廻心とは、心を翻すことなのだから、疑謗が縁となっていくというお心にも通じるのではないか。
しかし、これは単に自身の内面だけで完結させるだけではない。『歎異抄』第十二章には、
「この法をば信ずる衆生もあり、そしる衆生もあるべしと、仏説きおかせたまひたることなれば、われはすでに信じたてまつる。…」
とあるが、実際、聖人の時代に、他力念仏の教えを露骨に誹謗されている。時に、山伏弁円の逸話のように、聖人自身が命の危険、つまり迫害にも及んだこともあったのではないか。
第一、聖人自身が、時の権力によって、念仏停止の法難によって、越後にご流罪になっておられるのである。そのことについて、「信順を因とし、疑謗を縁として、信楽を願力に彰し、妙果を安養に顕さん」と書かれた同じ『化土巻』後序には、
「主上臣下、法に背き義に違し、忿りを成し怨みを結ぶ」
とまでの強い表現を使っておられるのである。それが、同時に、「信順を因とし、疑謗を縁として」とか、「信謗共に因となりて、同じく往生浄土の縁を成ず。」というのであるから、そのお心はなんと深いのであろうか。
これは、一番目のお言葉の「非僧非俗」もそうだが、聖人の常の仰せは、無謀な権力による正法の弾圧べき怒りと、そして流罪の身となって立ち上がってきたわが身の真実、さらには弥陀の本願のかたじさなさが生み出されたお言葉ではないだろうか。
「信謗(しんぼう)共に因となりて、同じく往生浄土の縁を成ず。」
まさに第十八願の唯除のおこころにも通じるもので、阿弥陀様のお心に触れなければ到底出て来ない、大悲のお言葉ではないだろうか。
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