「もったいないものなー」
おばあちゃんが、久しぶりに子供たちの好物のハンバーグを作ってくれた。おふくろの味ではないが、おばあゃんの味が、二人は大好きだ。
「おばあちゃんのハンバーグ、ちょうどいい焼き加減やんやな。おいしいわー。」と、上の子は、ほんとうにうれしそうに、声をだして御礼を言う。
ちょうど育ち盛り、食べ盛りで、飛躍的に食欲が増しているのもあるが、ぼくが作ったちょっとしたものでも、喜んでおいしそうに食べてくれるのだ。しかも、ただおいしそうに食べるだけでなく、ちゃんとそれを口にだして、「この炊き具合がいいわ」とか、「お父ちゃんの作るパスタは、固さがちょうどいいねん」とか、とにかく自然な形で、口にだしてくる。
先日、法座に向かう朝のこと。おいしそうなライ麦入パンを買ってきた。ただトーストにしただけなのに、「アメリカではトースト食べなかったので、久しぶりやナー。わー、これおいしいで、お父ちゃん!」と、また言ってくれたのだ。
もし上手としても、言われることはうれしい。第一、それが身について自然なのはよくわかる。でも、ちょっびり子供にしては無理してないかが心配にもなってきた。それで、
「あんた、無理してないか。別に上手やったらいいで。」
「ううん、ほんまにそう思うねん。それに言わなかったら、なんか『もったいないやろう』」
ああー、これは子どもに完全にやられました。「おいしい」「いいな」「ありがとう」と感じたら、それを素直に口に出して相手に伝えていく。すばらしいことじゃないですか。
これは今生でも、仏法でも同じだなーと。どこかで、言わなくても、察してもらえる、分かってもらえる、口に出すほどのこともないと思っているかもしれないが、「有り難いな」「もったいないな」と感じているならば、恥ずかしがらずに声に出していくことが、仏法讃嘆ではないのか。実は、そうしないことが、ほんとうに勿体ないことでもあるのだろう。
「へえ、あんた、えらいなー」とほめたら、すかさず下の子が言った。
「私はどうや、、、。うん、私は好き嫌いが多くて、すぐ嫌いと言うけど、、」
確かにな。でも、それもまたすごく子供らしくて、ぼくは大好きなのだ、と。
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