親鸞聖人の三つのご持言とご遺言(1)
報恩講では、大原性実博士の小冊子にあった親鸞聖人のご持言(常の仰せ)と、ご遺言を頂いてご法話させてもらった。
「常の仰せ」とは、親鸞聖人が、常に言っておられた口癖のような法語というか、味わいのお言葉で、聖人自身が直接書いておられないが、近くにおられた家族やお弟子の耳に残っていたお言葉である。 『歎異抄』の唯円房だったり、曾孫にあたる覚如上人だったりするのだが、有名な「仰せ」もあるが、ここでは「常の仰せ」というご文三つを取り上げた。
まず最初は、『改邪鈔』にある有名なお言葉。
つねの御持言には、「われはこれ賀古の教信沙弥の定(じょう)なり」と云々。 (『改邪鈔』覚如上人)
有名なわりに、お参りの半数ぐらいの方は、初めて聞いたとおっしゃっていたが、賀古とは、現在の兵庫県加古川市のことで、いまも教信寺には教信上人の墓所があり、念仏道場の痕跡を残している。実は、聞法旅行でも訪れて(みんな忘れていたが)、このブログでも、昨年の5月に取り上げている。それで、教信上人のことは以下にも書いているが、重複するが、もう一度触れておこう。
http://karimon.cocolog-nifty.com/blog/2013/05/5-24b5.html
教信沙弥(しゃみ)は、もとは興福寺の学僧だったいわれるが、諸国を遍歴の後、播磨国賀古(かこ)の駅(うまや)(兵庫県加古川市)近くに庵を結び、教典も仏像も安置せずに、西に壁を設けずに、ひたすら称名念仏し西方浄土を願ったという。髪も剃らず、妻を娶り、子と共に生きる沙弥(しゃみ)として、もちろん権力や大勢とも無縁で、市井にあって、人々の荷物を担いたり、農作業を手伝うなど利他を行い、自ら称名念仏するだけでなく、人々にもお念仏を勧めた在野の念仏者である。それで人々から、「荷送の上人」とか、「阿弥陀丸」と呼ばれていたという。
阿弥陀如来の信仰に生きた人々の行実を集めた『日本往生極楽記』や、『今昔物語』に紹介されている。特に、その終焉は有名な逸話である。
八六六年八月十五日、勝尾寺(大阪府箕面市)の僧・勝如(しょうにょ)の夢枕に教信が立ち、「念仏により極楽往生を遂げた」と伝えた。弟子を現地に赴かせて確かめさすと、教信の屍は野にさらされ、群犬にその体は食われていたが、首から上は無傷であったという。
その説話を今に伝えるべき、教信上人の頭像が、開山堂に安置されている(聞法旅行の時に、写真も撮らせていただいた)。
親鸞聖人だけでなく、永観律師や、特に一遍上人は深く追慕されている。
その親鸞様のお言葉を受けて、覚如様は、以下のように記されている。
つねのご持言には、「われはこれ賀古の教信沙弥の定なり」と云々。(略)…愚禿の字をのせらる。これすなはち僧にあらず俗にあらざる儀を表して、教信沙弥のごとくなるべしと云々。これにより、「たとひ牛盗人とはいはるとも、もし善人、もしは後世者、もしは仏法者とみゆるやうに振舞ふべからず」と仰せあり。
聖人の愚禿のおこころ、非僧非俗の行き方のお手本は、この教信沙弥にあったといっていい。
親鸞様の『教行信証』は、世界的な、時代を超えた哲学書といってもいい内容で、どうしても、現代の人達は、頭の世界、学問から真宗に入っていく。しかし、聖人の教えを聞いていた当時の大半の人は文盲であったのだろうが、それでも、聖人のみ教えは、一文不知の群萌へ「南無阿弥陀仏」の声として広がっていくのである。それは、単なる学問、理屈で通る教えではなく、まさに凡夫の身にかけてしか伝わらない、イキイキとした生活に根ざした教えだったからだ。
その意味では、聖人のご恩徳は、単なる弥陀の本願を明らかにされただけでなく、そのお目当ては誰にあるのかを、聖人自らが、流人となり、肉食妻帯し、まさに愚禿として、非僧非俗を生きて示してくださったところにあるのではないか。煩悩具足の泥凡夫が、煩悩具足の泥凡夫のまま救われていく道を、聖人が身をかけて教えてくださったのである。だから、聖人の示されたお念仏は、いま輝き生きているのである。
また、同じく聖人の遺言といっていいお言葉として伝えられているのが、
という、これも有名なお言葉だが、明らかに教信沙弥の影響があると思われる。
覚如さまは、このご文を引いて、葬送一大事の当時の風潮を戒められている。この厳しいご遺言といっていいお言葉を、いま、都合が悪いことがあると、すぐに「非僧」であることに逃げながらも、まったく「非俗」のである姿を示すことができないまま、葬儀や法事に明け暮れている現在の真宗僧侶は、どう頂くべきであろうか。現実をみれば、まったく耳の痛いお言葉だ。
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