« 自転車泥棒?  | トップページ | 広島支部法座 »

輪読法座~法座は「有り難い」

 1月の華光誌輪読法座。

 ぼくの誌上法話「許されて聴く」を読みすすめる。前半の部分は、1年前にご往生されたI先生の話題からだ。昨年の報恩講の初日の朝に、飛び込んだ訃報だった。あれから1年か。月日の経つのは早い。

 いまの華光に集う人達は、京都で活躍されていた頃のI先生を知らない方が多い。しかし、私が「知っている、知らない」に関わらず、先生が、仏法のために活躍された功績と、今日、私がここで聞法できるための大きなご恩徳があったことは、事実なのである。

 つまり、私が「知っている、分かっている」と思っているおかげなど、ほんとうに氷山の一角も一角。それでも、私は、ほんの一かけらに触れただけで、すべてが分かったとうぬぼれている。それでいて、如来様のご恩徳が「感じられない」などとほざいているのだから、ほんとうに無明とは、よくいったものである。無明の一番おそろしいところは、自分が無明であることを知らないところにある。ソクラテスの「無知の知」ではないが、無明が無明であることが知れるのは、真実の光明にあったおかげなのだ。

 日常生活ひとつ、法座活動ひとつ、おかげやご恩でないものはない。それは、如来様の命が捨ててあるのだけれども、そのことに心を馳せながら、ご法座に座ることがあるだろうか。当たり前のように、自分のお金や力で来たと思い、その元を取りたい。そのために、有り難い法話を求め、珍しいことや知らないことを教えてもらい、何かを得て帰りたいと願っているのだから、まさに轉倒(てんどう)しているのである。

 法座がもたれること自体、その場に連ねさせてもらえる自体、私の口から「南無阿弥陀仏」とお念仏申させてもらえること自体、何ひとつとっても、当たり前のことはなく、踊躍歓喜するほどのことなのだが、みんな当たり前と思っている。ましてや、廃立の関門を超えさせてもらったことをや、である。ほんうとにもったいない、有り難いことですね。南無阿弥陀仏。

|

« 自転車泥棒?  | トップページ | 広島支部法座 »

法座と聞法」カテゴリの記事